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言語能力と教養

内向型は思考のタイプである。不安になったり、ひとつのことが気になると、とことん思考のループにハマっていく。生来のこの気質が自分を苦しめ、大いなる葛藤を生むことになったが、40歳の今になって強みであると感じることが多くなった。

内向型と一括りにしてしまうのは、もしかして乱暴かもしれないので、私の場合として聞いていただけたらと思う。

私は昔から飽きっぽく、色々なことをしては途中で投げ出したりもしていたけれど、たったひとつ止めなかったことがある。それは「言葉に対する執着」だ。

言葉を集めること、意味を知ること、自分なりに感じること、また、個人間でのその差、文字と音との差を認知すること、興味は尽きなかった。幼い頃から毎秒毎秒サンプリングしていたような日々だ。

だから、ちょっとしたニュアンスで傷つくことが多かった。三浦綾子さんの小説の中だったろうか、「聞く者が聞けば、その言葉には毒がある」という一文が今でも心に残っている。私はまさに、その「聞く者」になってしまうことが多かった。要するに言葉の感受性がとても強かったのだと思う。

頭の中でぐるぐるしているものを、いつも言語化し、ハッキリさせたいという欲求が強く、この性質が思い悩む性格に拍車をかけていたように思うし、若い頃は、周囲に比べて考え込んでしまう自分をネガティブだと指摘されることも多く、ずいぶん悩んだように思う。

ただ、今になって感謝することがある。この言語化するという作業こそが、私の思考力を高めたことに他ならないからだ。自分の状態や気持ちが、人のそれとは大きく違っていたため、周囲の理解を得るために、色々な表現を(残念なことに頭の中だけだったが)繰り返し、繰り返し試していた。

また、自分の心に近く寄り添うような友人を得ることがなかった私は、読書で孤独を癒やすことが多かった。登場人物のそれというわけではなく、情景描写の一節の中に、筆者の慈愛を感じることもあれば、描き出された細かな所作に自分を見つけることがあった。

本の中にだけ、私が、私の友人がいたのだ。

だから、寂しいときこそ、救いを求めて本を読むことが多かった。本については雑食で、気になったものを手にとった。完読できないものも多かったけれど、文字で友人と会話することで、私の中の論理力、共感性、思考力は人知れず強化されていったように思う。

ここでひとつ思うことがある。現実に人と話している時、抽象概念が今ひとつ伝わりにくい人を発見することがある。人と人がコミュニケーションする場合、例え家族であってもそれぞれの知識や経験におけるックボーンが異なる。

つまり、同じ前提条件がないため、互いの専門知識や得意ジャンルの話をするには、ある程度、概念化するなり、比喩するなり、伝える工夫というのが必要になる。

しかしながら、この「例え直し」ができない人間が意外と多い。これは解説や講義などの動画を観ていると顕著だ。客観的な思考が強い人間は、相手のレベルに合わせて噛み砕くことができる。

私は教養がない方だが、本当に頭の良い人の話はちゃんと聞けたりする。なんと言っても分かりやすいのだ。そして、海外で暮らしていたときも、この概念化というのが非常に重要だった。英語でのコミュニケーションは、言葉探しのコミュニケーションではないのだ。

概念を、たとえ拙い表現であっても、置き換えられれば伝わることが多かった。それも深く共有できた。だからこそ、互いに言葉の不足があったりして、等価で置き換えられない他言語間であっても、詩を始めとする言葉の伝達がなされていくのだ。

人は、言葉の意味だけを持って意味を知るのではない。言葉が集団となったときに描き出す言語化が難しい抽象概念を共有することで、より深く互いに認知しているのだと思う。

ここで、遠回りになってしまったが、はじめの話に戻したい。内向的な方には朗報だ。私達は、自分の知が足りないということさえ自覚していれば、この言語能力を基とする思考力でもって、あらゆる教養に触れることができるだろうからだ。

なぜなら、よい表現者はちゃんと知識を概念に置き換えてくれる。その情報を見つけさえすれば、あなたは、経験上、その概念を別の分野の経験で補足できたりもするのだ。

あなたの中で、考えつくされ、昇華された、ある意味、粋のようになった思考・概念・本質というものは、分野を超えて通用することが多いと思う。その凝りはあらゆる分野で見つけることができるだろう。

内向型の方には、その思考力でもって、是非とも知識の大海原を旅してほしい。あなたは決して溺れることなどないだろう。風をそよぎ、水面を撫でるように進んでいけるはずだ。

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