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日本人は本当に善良か

40年間の人生と、少しの海外経験を基に、時々思うことがある。タイトルにあるように、「日本人は本当に優しい民族なのだろうか」ということだ。

宗教的な背景

諸外国においては、キリスト教、イスラム教、仏教と、宗教が深く根ざしている所が多く、特に、私が生活したキリスト教圏においては、「弱い者に手を差し伸べる」ということが、社会的なポーズであれ何であれ、かなり根付いていたように感じる。

日本人はときに、「心からやっているか」を問題にすることがあるが、これは全くのナンセンスで、お金はお金だし、助けは助けだ。必要な者に届くのならば、その是非などは、個々人が己を見つめ問えばいいだけだ。まずは行動ありきだと思うのだ。

よく聞く言葉に、欧米は「罪」の文化であり、日本は「恥」の文化であるという。これは本質に近く、同調圧力が高く、横並び意識が強い日本人は、とにかく自分で判断するということをしたがらない。

迷ったとき、隣の顔色をうかがうのだ。ペロッと舌を出して、やってしまう。誰も見ておらず、特に浮くこともなければ「是」となる。これが日本人のメンタリティだ。自分の頭で考えない。自分の人生にとって、魂にとってどのようなことをなそうとしているのか、まるで考えない。誰が見ていなくとも、その行動を自分だけは必ず見ているというのに。

裁量について

北米で生活していた時、入管職員の裁量範囲の大きさに驚いたことがある。かなりイレギュラーな申し出であったにも関わらず、その部署のトップとも思えない職員が「GO」を出したことがある。もちろん、それで何かが起こっても、全て引き受けるという覚悟ではあったが。

おそらく日本の職員には、このような判断ができないと思う。もちろん徹底したマニュアルがそれを許さないということもあろうが、それ以前に、自分の脳で考えることができない。

「ルールに従うことが至上」であり、古くなったルールを疑うこともなければ、便利なものに変えようという気概もない。また、リスクをとってギリギリの運用をすることもない。

思考停止のもたらすもの

善良であるということを定義するならば、それは「誠実」であることだと思う。ルールを守ることとイコールではない。相手がいる場合ならば、可能な範囲で相手の立場に寄り添い、ベストな道を模索すること、これが誠実さだと思う。

そして、必要であれば、きちんと意見を言う。これが誠実な勇気だ。残念なことに、私はそういった誠実さをあまり日本人から感じない。日本人には、目が静かすぎる笑顔を貼り付けた、とりあえず否定をしない人間が多いが、これが割と気持ち悪い。

内向型諸君は思わないだろうか。どうしたって内向型の分析力を持ってすると、嘘は嘘だとほぼ分かるし、不誠実さについては100%見抜けてしまう。愛想笑いも取り繕いも、無駄なのだ。それが人間関係の潤滑油だと言う人もいるが、不毛なので、そろそろ率直なコミュニケーションを始めてはどうだろうか。

思考停止のもたらすものは、最悪な未来だ。そこには、窮屈で閉塞した日本がある。未来ある若い人達を、40代を迎えた私が老害になってはいけない。まずは、最低限の意見交換、討論ができるように思考力だけでも鍛えておきたいと思う。

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