はじめに
これは、少し前から気になっていたテーマで、書こうかなぁと思いながら放置していた。そして、昨日また少し材料が入り、よい機会だと思ったのでシェアしたい。
私は過去に悪意による攻撃を受けたことがある。当時はそういった知識がなく、また、ぶりっ子ぶるわけではないが、自分のなかにそのようなサンプルがなかったため、「悪意ある存在」についての発想にさえ至らず、自分を守れなかった。そして、人間関係に不器用な内向型の方には、私と同じようなタイプが多いのではないかと感じている。
私自身は、そもそも他人に興味がなく、人間関係をコントロールしていこうという考えがないようだ。末っ子気質そのままに、人間関係はずっと受け身で、好かれても、嫌われても「ああ、そうかぁ・・・」という感じ。その中で興味を持った人間のそばに居続けるかどうかだけを自分の心で決めている。そして、興味のない人間が視界に入らず、ぼんやりとノーガードだったために、積極的な悪意の介入に滅ぼされかけた過去を持っている。
当時の事象をシェアできれば一番いいのかもしれないが、「悪意」の知識を得ることで一時的に布で包んで応急処置をしているが、その傷には未だ生感があり、自分のなかで消化しきれていない。当時の苦しい気持ちは今はないが、思い出そうとすれば思い出せるほどに、まだその感情は鮮やかだ。そのため、感情を交えずに冷静に状況分析を伝えることができないので、今回は情報のシェアに留めたい。私は自分に関係のある部分的な知識しか把握していないので、気になった心理学の知識については、できればキーワードを元に文献などを追いかけてほしい。その方が、情報が正確で整理しやすいと思う。自分を守るために「攻撃」についての知識は必要だ。あなたに知っていてほしい。
悪意のサンプル
コバヤシテレビ局(小林麻耶さんのパートナー氏)
少し前に話題になったこの動画は閲覧に気をつけてほしい。あなたの心が今整っていて、俯瞰的な視点で知識として入れたい場合のみ、どの部分でもいいので2~3分だけ見てほしい。(見なくても構わない)
これは「悪意と狂気」のサンプルだ。現在進行形で人ひとりが滅ぼされようとしている事実が私は恐ろしくてたまらない。見た後にとてもしんどくなってしまったので、閲覧には注意してほしい。
こちらの動画は、薄目を開けて見れば結構大丈夫だ。このような人間の目、佇まい、空気感、所作、抑揚、言葉のチョイス・・・など、できるだけサンプルを取ってみてほしい。これは、あなたが相手をしてはいけない種類の人間だ。一見正論のようなことを話すこともあるが、何かザラリと感じる部分がある。私もまだまだ言語化できないが、違和感のようなものをキャッチしていただけたらと思う。
事細かに心理学を駆使して伝えられる程に知識がないのが残念なのだが、男性は明確な悪意を持って、彼女を喰らいつくそうとしている。悪意の矛先が、彼女自身なのか、それとも社会的な何かや鬱屈した自身の過去なのかは分からないが、恐らくこれは、マニピュレーター(manipulator:人を操る者)と言われる部類の人格であると思う。周辺のキーワードとしては、パーソナリティ障害やカバートアグレッション(Covert Aggression:隠された攻撃性)などがある。このあたりの解説は、ジョージ・サイモン「他人を支配したがる人たち」が詳しい。モラハラによる攻撃を受けている場合なども、それを言語化して体系的に理解するのに役立つだろうと思う。
実はこの本は、私が攻撃を受けた際に分析を進める上で辿り着いた本だ。この本のなかに攻撃者を見つけた時には、戦慄したと同時に、説明がついたことへの安堵感もあり、実は本の内容を詳細にはあまり覚えていない。このような記憶が飛ぶということが私にはたまにある。それはキャパオーバーとなった時に起こりがちで、裏を返せば、私の攻撃者をそのまま描き出していたため、その姿に相当なショックを受けたのであろうと思う。感情が落ち着いたら数年後に読み返したい本の一冊だ。
大事なことなので、少しだけ小林さんの周辺を推察しておく。彼女にとって妹の存在は、個性的な彼女の数少ない理解者でもあり、かけがえのないものであっただろうと思う。その喪失感を思うとたまらない気持ちになる。そして、彼女はその存在を失った事実に未だ動揺し続けている。そんなどこか幼さの残る彼女の心の隙間に入ってきたのが彼だ。こういうことは実はよくある。弱っているときこそ、悪魔を呼び込んでしまう。
ここでは、彼女自身の問題点を探すのではなく、どうすれば防げる可能性があったかを考えてみたい。
ひとつは、大切な人間を一極集中させないことだ。複数のコミュニティに属し、多様な者に触れていなければならない。とは言え、そうそう大切だと思える者に巡り会えるものでもない。一人出会えるだけでも大勝利なのが人生とも言える。しかし、どんな時でも自分に寄り添ってくれる存在がたったひとつある。「自分」だ。
自分と語り合わなければならない。取り入れた多様なものと語り合う必要がある。その苦しさ、生涯埋まることがないだろう喪失感とその絶望について、見つめなければならない。悲しさに押しつぶされそうになっても、友人などの力を借りながら、少しずつ少しずつ対決していく必要がある。
このような作業はただでさえつらい時に、相当の痛みを伴う作業となる。だからこそ、普段からこの作業に慣れ親しんでいなければ、いざという時に自分を守れなくなる。
苦しい時に、優しそうな誰かに縋りたくなる気持ちは分かる。その人が本当に優しいこともあるだろうが、同時にその隙を狙うような人間が存在する事実も知っておくべきだ。例え悪意が笑顔で近づいてきたとしても「自分を取り込もうとしているのかもしれない」「攻撃を受けているのかもしれない」という可能性さえ知っていれば、自分を守ることができる。そもそも悪魔は笑顔でしか近づいて来ない。
詐欺案件
詐欺の手口と、それによる心情の変化が勉強になるので、2つシェアしたい。
まずは、不動産投資にまつわる案件だ。思考力もそれなりにありそうな女性が絡め取られていく様子が非常にリアルだ。「意思が弱い」と切り捨てることなく、このようなことが起こりうると知っておいて欲しい。巧みな手口に対して、判断力が鈍っていくことはよくある。このチャンネルには、他にもスルガ銀行案件など示唆に富む内容が多いので、経済知識を補完する感覚でざっと気になるものをチェックしておくのがおすすめだ。個人的には五十嵐未帆の「愛のお説教部屋」シリーズが勉強になった。コロナ禍で不安を感じている者は多いと思う。それは悪意にとって絶好の隙だ。気をつけて欲しい。
次に、せやろがいおじさんの番組でシェアされていた「いい先輩詐欺」だ。
いやぁ、この手口にはうなってしまった・・・人に嫌われがちな私は、若く危うい時期であれば、このような手口のターゲットにされていたかもしれないと思った。名義貸しやローンを組まされるなど、立ち止まる機会は多そうに思えるが、実はそれも自分が女性だからかなぁと思ったりする。ここで語られる事例には、ホモソーシャルにおける上下関係を無視できない、逆らえないというような、ある種の圧力を感じる。
また、人に裏切られた、騙されたという事実を受け入れがたいため、薄々間違いに気づいていても引き返しづらく、さらに友人を巻き込んでしまう可能性があるのが、この詐欺の嫌な部分だ。気づいた時には傷が深く、立ち直りにも時間がかかるだろう。己の愚かさや弱さを認める作業はかなり苦しく、避けてしまう人間も多い。気をつけたい部分だ。
サンプルの探し方
小説のなかの悪意
悪意のサンプルを探すのにうってつけなのは、小説だ。目の前でリアルタイムに悪意を披露されたところで、心と脳が追いつかず分析できない。時折、フィクションを通じて悪意に触れておくことで、弱いながらもサンプルを自分のなかに揃え、防御力が上がる可能性がある。
私自身は、吐き気がして読めそうにないが、あなたが男性ならば、姫野カオルコ「彼女は頭が悪いから」を是非手にとってみてほしい。これは実際に起こった東大生5人による強制わいせつ事件を扱った小説だ。「俺は頭がいいエリートだ。だから、それ以下の人間をどのように扱っても構わない」そう考える恐ろしい人間が既に社会に現れ始めている。社会と人心がどこまで壊れているかを綴った内容となっているらしいので、時代を捉える上でも何かのヒントになるだろうと思う。
過去に私が読んだなかで強烈だった小説には、新堂冬樹「殺し合う家族」がある。実はこれが実際の事件を描いたものだとは、後で知った。前提知識がなく、フィクションだと思っていたからこそ読めたと言える。もう二度と読めない。これは北九州で実際に起こった、悪意の権化のような人物と、それに関わってしまった家族が殺し合う事件の様子を描いている。その後同様の事件が尼崎で起こったが、この前提知識があったため私はそれを理解することができた。
どのように人が支配されていくか、壊れていくかを克明に描いているので、学ぶことは多いだろうと思うが、かなり描写がエグいので、心が安定していない時期は手にとってはいけない。また、このような小説を読むことは、単に心情の分析のみならず、社会状況の分析にも役に立つことがある。好奇心が高まったり、知識を入れやすそうなタイミングで少しずつ触れておくとよいと思う。
裁判の傍聴
実はこれを一番オススメしたい。裁判の傍聴は人生の覗き見そのものだ。私はプラプラ期が割とあり、20代も終わりのちょうど裁判員制度が始まる数年前に、よく傍聴に出かけていた。その動機ともなった、三谷幸喜「12人の優しい日本人」は面白いのでおすすめだ。
地方裁判所で様々な事件を傍聴した。このような行動に至ったのは、突き詰めると「悪人の顔を見たい」という好奇心であったように思う。40代になった今では、当時のこの感覚が非常に「アホ」かつ危ういと思う。その後、映画「悪人」を観て以来、犯罪者と自分は地続きであると感じることが多くなったし、今ならばもっと別の視座を持って、法廷に立つひとりの人間の「人生」を観るつもりで臨んだだろうと思う。この映画は本当に素晴らしいので、未視聴の方は是非。とは言え、裁判はエンタメ性が実はかなり高い。少し傍聴すれば、報道されることの少ない覚醒剤の入手ルートさえ分かってしまう。あまり気負わず気軽にフラッと行ってみると発見があって面白いと思う。そして多分、友達もできちゃう。
印象に残る裁判は2つだ。いずれも傷害事件で、ひとつは暴力団員が起こしたもので、もう一つは少年が起こしたものだった。
暴力団員が起こした事件のあらましは、ラウンジで飲んでいたところケンカになり、壺で頭を殴って怪我をさせたというものだった。傍聴席に入室すると、まず、奥の一角を占める暴力団員達の姿が目に入った。そして、傍聴席の真ん中には極妻と思われる女性が乗り出して「愛してる」アピールをするように裁判の進行を見守っていた。怖い!だが好奇心でワクワクが止まらない。彼らに視線を合わすことなく、目の端で空気を読み取るようにウォッチしていた。(こういうことはよくあるが、特に危険はない。できるだけ地味な装いで行くといいと思う。慣れた人はうまく気配を消している)
この被告人が壺を持ち出し、頭を殴る描写も漫画のようだったが、そのうち、この被告人が法廷でストレッチをし始めた。あくびをして背伸びをする。もう頭の中で爆笑が止まらなかったが、私は表情筋を殺して神妙な顔をずっとしておいた。きっと彼は妻や団員の前で見得を切っていたのだろうと思う。凄い世界だなぁとシンプルに感心してしまった。事件の凶暴性とは裏腹にもはやコメディの1コマとして記憶に残っている。ここでは、悪意というよりももはや空虚である心と、暴力が日常の延長である世界を垣間見た。
一方少年の裁判は、危害を加える様子が克明に語られ、心をえぐられた。(途中入場&退出はOKなので、とりあえず入ってみて聞きたくなければすぐに離席してほしい。心に傷を負う場合もある)
傍聴席に座る私に、被害者側の親族であろう方々が次々に頭を下げる。そして、裁判中も裁判官とよく目が合った。被害者家族の行き場のない思いと、裁判官の事件と人心の関わりを深く読み取ろうとする意思を感じた。
そこでは、裁判長に問い返されて、被告人の「反省文」が何度も繰り返されていた。彼は「反省しています。心から後悔しています」と棒読みしていた。恐らく弁護人からのアドバイスを受けての定型文だ。
この時、私が考えていたのは、果たして気持ちのこもらない「言葉」を司法がどのように取り扱うのかということだった。それまでの経験上、何か事が起こっても「ごめんなさいを言ったから」「謝っているから」「反省しているみたいだから」と誤魔化されてしまうことが多く、表面だけの言葉のやり取りに疲弊していた。そして、そのような「中身のない謝罪」であっても、一応の謝罪と見なされる事実に対して、自分では「言葉の重さの違い」を証明することも、明確に反論することもできず、ずっとわだかまりがあった。
その裁判長は言った。「あなたは自分で何も考えていない。あなたの言葉は私に届かない。この事件をどのようにあなたは考えているのか。反省しているとは、後悔しているとはどういうことか。」そのような感じで、数度問い質していた。少年の定型文は最後まで変わることがなかったが、私はこのやり取りに感動を覚えていた。
「ああ、裁判長という存在はそこまで人を見るのか」と思った。たとえ学校の教員であっても、ここまでの深い観察力・洞察力を持つ人間、あるいは踏み込む人間に出会ったことがなかった。このような人間がいることに驚き、また、希望を感じた。
自分と同じような人間を見つけることができず苦しい内向型だが、案外裁判所にはそういう人材が集っているのかもしれない。この少年の裁判では、心を持たない人間の片鱗をつぶさに観察できた。こういう人間は確かにいる。
悪意の分析
悪意にまつわる知識を得るには、上記の事柄も役立つが、もうひとつ「行動分析学」も役立つ。
何か怪訝な事象が発生したとき、だいたいの人間は「なぜ」と考えるのではないだろうか。勿論これは有効な手法で、あらゆるコミュニケーションにおいて、相手のバックボーンを配慮することは大切だ。しかし、あえて欠点を言うならば、この手法による結果は、考える人間の「経験や想像力」に左右されすぎてしまうところだ。
相手に憑依するようなつもりで、できる限り「なりきり」、当初観察していた180度の視点から0度に近づけ、相手の背後から事象を見つめることで、追体験するように深く想像する手法もある。が、やはりこれも想像力に左右される。
ここでひとつ提案したいのが、行動分析学における考え方だ。「なぜそれをしたか」を考えるのではなく、「それをした結果、何を得たか」という視点で事象を探っていく。
私はこの手法を取り入れて以来、格段に分析力が向上したと自分で感じている。実は自分のズボラも詳細に分析できている(だからって治らない)。
そして、行動分析学は「分析」だけでなく「誘導」においても本領を発揮する。家庭や職場において、例えば子供に「~しなさい」と言っても、部下をうまく誘導したくとも、そう簡単ではない。そのような時に、口先で説得するのではなく、この行動分析学を駆使して、選択肢を意図的に&婉曲的に「環境でもって誘導」する方法を試してみてほしい。家庭や職場で有効そうなハックは次の2冊がおすすめだ。
すぐ読めてしまうような本なのだが、かなり役立つ。購入してずっと手元に置いておくといいと思う。
動線・導線の設計に役立つ。ここでの具体例は断捨離をしている方や、ミニマリストを目指す方にもヒントが多い。婉曲的な意味では、どのように人を導くかという視点を得ることができるように思う。ゴリゴリの合理主義者の私にはワクワクがいっぱいだった。全てを最適に設計し直したくなってしまう。
私は職場で提案すると反発されることが多かったので、このトヨタ本を片手にシラッと勝手にやってしまうことがよくあった。検討することは嫌がる人間が多いが、便利になったことについては誰も文句を言わない。そして、もはや元の不便さには戻れない。何か業務や家庭運営でジレンマを抱えている方のヒントにもなるだろうと思う。
さいごに
なんだか、色々詰め込んで拡散しきった記事になってしまったが、もう今日は遊びたいのでここまでにしたいと思う。何かしらヒントを得て、あなたやあなたの大切な人を守ることに繋がればと願っている。