はじめに
自尊心や自己肯定感という言葉を昨今よく耳にするようになった。自尊心の低さや自己肯定感のなさが脅迫的に語られる度に、「果たして自分にはあるんだろうか」と毎回ドギマギしてしまう。あるような、ないような。
私にとってこの2つの言葉は、いつまでも分かるような分からない言葉でふわふわしていて、ひとつの記事として語るにはお粗末なのだが、周辺で思うことがあったので残しておきたい。
言葉の定義
辞書を引いても分かるようでわからんのでGoogleセンセに尋ねた。STUDY HACKERの記事がわかりやすかったのでシェアしたい。
だそうだ。テキトーなところがある私は、ここに出てくるすべての単語に対して、やっぱり「あるような、ないような」と思うのであった。
ポジティブ教
さて、言葉の定義が共有できたところで、私が憎む邪教「ポジティブ教」についてまずは語りたい。
私がイラっとする言葉のひとつに「考えてもしかたない」がある。そういう状況はあるし、現実を動かすには別の力学が必要なこともある。そう理解する一方で、事象にあたった極めて初期段階で思考停止するためにこの言葉を用いる者も多い。また、問題への対処を諦めて消極的に受容するような心の動きも好きではない。なぜ頭がキリキリするまで思考して別の道を探そうとしないのか歯がゆい。
インフルエンサー達は、どこかキーキーとヒステリックに鼻息荒くポジティブであることの大切さを語る。賛同できる意見もある一方で、「ネガティブを一切寄せ付けたくない」という頑迷さも感じる。ネガティブな感情の何をそんなに恐れているというのだろうか。
ポジティブ教の一番の害悪さは、「自分を磨くことで自信がもてるようになった」など「属性への自信」について語るときだ。
属性に自信を持つ危うさ
属性の優位性で自信を持つことの危うさについて語っていきたい。
「自分は~~大学出身だから」「リッチだから」「容姿が美しいから」「フォロワーが多いから」等、そのような属性を理由に自信を持っている方は多いと思う。それ自体はもちろん素晴らしいことで否定しない。
ただ、私はいつも思うのだ。魅力を属性で語れるということは、常に何かの母集団に埋没し比較対象に入るということ。つまり、己の上位互換が簡単に見つかるような世界で、一体いつまで自信が担保できるのだろうかと懐疑的になってしまうのだ。
属性に自信を持つということは、他者と比較するという仄暗さに端を発している。しかし、自分よりリッチで美しく優れた者はいる。あまりに属性に着目しすぎると、他者と比べることが日常的になってしまうのではないかと思うし、世界にたった一人になった時どう自信を担保するのだろう。そんなことで強気の自信が持てるシンプルな思考は、誠にめでたく、眩しくて白目をむきそうだ。あなたの一番素晴らしい部分は、そんな小さなところには決して留まらない。
私は何ひとつ自慢できるような属性を持たず、全くキラキラしていない。そんな何も持たない私だが、素晴らしい友人だけはいるという事実が逆説的に私の自負である。なぜだかよくわからないが、数少ない友人たちは私のことがとても好きだ。「まぁ、末っ子は愛されて当然」と深く考えずに図々しく居直っている。
この理由なく愛されているという状況こそが何よりの福音だと思う。私と付き合うことに正直なんのメリットもない。経済的なメリットもなければ、誰かをつなぐという人脈的なメリットもない。有形の価値提供は何もできない。一応それは自覚しているので、興味の対称がコロコロ変わってプラプラしている私は、妙にニッチなジャンルの割としょうもない話や、面白かった本・映画などの情報があればシェアするようにしている。後日それを確認した友人が感想を話してくれることも多く、なんとなく、そういう部分がフィットしているのではないかと思う。友人たちは実は鵜飼で、おかしなものを拾ってくる私を面白がっているのかもしれない。
自分の好きなところ
そんな私が、自分の好きな部分をジャイアンリサイタルしてみたい。
私は時間をかけて言葉を探しながら書くことも好きだが、ラップバトルのように言葉の応酬で遊ぶのも好きだ。それができる相手は少ないが、以前「今までで一番辛かったことと、幸せだったこと何?」と尋ねられ、「辛かったことは通り過ぎた。一番の幸せはこれから」と瞬発力で答えたことがある。
この時の相手は言葉遊びができる人だったので、言い回しや機転、エスプリを入れるのが暗黙の了解で、真面目に不真面目に会話という遊びを楽しんでいた。
私の解答は特別優れたものではないが、思考をすっ飛ばして感覚的にこの言葉が言えた自分が私は好きだ。自分の性格は、明るいか暗いかと言えば暗い方だと思うが、スルッとこの言葉が出てくる自分は基本的に前向きなんだなと後になって強く自覚した。自画自賛で鬱陶しいだろうが、私はオートでこの言葉が出せる自分がマジで大好き。
ジャイアンリサイタルは続く。ある日私は梅干しを小さな容器に取り分けていた。梅干しは昔ながらのしょっぱいのが好きで、近所のスーパーにないので塩分濃度20%の白干し梅を取り寄せている。キロ単位で届くそれを小分けするのは面倒な作業のひとつで、次の作業タイミングをできるだけ先延ばしにできるよう、容器に最大限に移し替えようとギリギリのラインを探っていた。あとひとつ、あとひとつ入るんじゃないか・・・。イケる!と思ったが、蓋を閉めると梅が潰れる感触があった。
ただでさえ面倒くさい作業をしているのに目測が外れ、私はムシャクシャしたまま余分な梅干しをその時作っていた味噌汁にブチ込んだ。結果、味噌汁は超絶美味かった。びっくりした。感動して、梅干しと合う食材を色々試し、結果、厚揚げと梅干しが入っていると「ふぅ~」という気持ちになることが分かった。油分と酸味のマッチング、最高だ。
梅干し革命に限らず、私はたまにヒットを放つ。料理下手あるあるだと思うが、新しいレシピに挑戦しながらも、やっている最中にだんだん飽きてきて、初手からアレンジをしてしまう。たいていは失敗に終わって、誰かの丹精込めたレシピをスポイルしたことを反省するのだが、たまにヒットが出るから冒険はやめられず、私はいつまでも懲りない。長くなったが、私はこの自分のテキトーさがもたらす、ある種の偶発性と冒険心が好きだ。いつも知らない間にどこかへ連れて行ってくれる。
文章でチャームポイントを探す
前段が長くなったが、つまり、上記のようなことをやらかすのは世界でもアホな私だけという話だ。自分がオリジナルであるという事実と、誰にも置き換えられない部分を自分自身で愛せているという事実が、力強く内側から己を照らす。それは誰にも奪われない。誰とも比較されない。
おそらく私の友人たちは、こんな風に一言では表せない部分を何かしら発見し、愛してくれているのだろうと思う。それはつまり、彼らにとって私は置き換えのきかない唯一であることを意味している。生活能力も低く、鈍臭い自分に対してしょんぼりして自信を持てないと思う一方で、オリジナルの魅力で友人を惹きつける自分に自信を持ってもいる。自信はあるようで、ないようで、やっぱり少しある。人はそういうものではないだろうか。
そして私も、やはり一言では表せない部分に魅力を感じて友人を選ぶことが多い。これも私の誇りだが、私は属性で友人を選んだことがただの一度もない。その人の思考と感性、それが全てだ。
一貫してこのような態度でいる私には、副産物的に芳醇な出会いがある。私の趣味に山・陶芸・旅があるが、間口の広いこれらを通して出会った人たちは特に多様だ。
私は興味がないだけなのだが、相手の属性を一切質問しない。何歳で普段何をしている人かも知らぬまま、ただひとりの人間として話す。とある友人はこれをある種の清潔感と呼んだ。それを無愛想だと感じる人も多いだろうが、おもねることのないその態度に心を開いてくれる人もまた多い。
中庸
自尊心も自己肯定感も、まずはあるがままの己を認識することから始まるのではないかと思う。自分自身を深掘りする時に気をつけたいのは、繰り返しになるが、単純に単語で自分を羅列しないことだ。運が良かったと思う出来事や、嬉しかった記憶から探ってみると自分を深掘りしやすいのではないかと思う。素敵な部分がきっとたくさん見つかる。
それでもなお「自分には何もない。何もできない」と思ってしまうなら、私がひとつ先に見つけてしまおうと思う。
「自分にない」と思えるということは、「他者にはある」と存在を認められるということ。誰かの素晴らしさに気づけ、称賛できる強さと聡明さが自分にあるということにまず気づいてほしい。
そうやって、ひとつひとつ物事の裏側を探りながら、自分を肯定できたり、できなかったり、自信が持てたり持てなかったり、心をずっと柔軟に保っていくことこそが大切なのではないかと思う。ヒステリックに「私には自信がある!!」と言い切ったところで何も始まらない。揺らぎこそが人を磨き、心の土壌を豊かにする。
属性で人を見つめないことに慣れてくると、世界が途端に鮮やかになる。「ああ!こんなにも色々な人がいるのか!!」と、一段深く人間を見られるようになる。ここまでくると面白いもので、どんどん加速度がついていく。その繊細さで他者を観察できるようになった自分を、また同等の繊細さで見つける人が出てくる。それは深い深い眼差しで、そのような出会いを果たしたときの感動は凄まじい。
自信は持とうと思って持てるものでもなく、人と比較して得た薄暗い自信は長続きしない。まずは「自分の中にも必ず何かがある」と信じて探してみるのはどうだろうか。焦らなくとも、いずれ内側から湧き上がってくる。
そんな手ぶらでも胸を張れる人生を送れるように、ひとつ魔法の言葉をプレゼントしたい。自尊心は特に恋愛において重要で、不足を利用しようとする者に見込まれ呑み込まれることがある。「この者は、自分の心を傾けるに値する人間か」という問を常に持ってみてほしい。それが己の価値を自覚し、自分自身を大切にすることに繋がる。長い旅だ。ゆっくりと惑いながら一緒に心を育てていこう。