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みどり

はじめに

日々の雑記を掲載するということはあまりないのだが、今回はふと符号が揃ったので、ニーズはなかろうがメモ代わりに書いてみたい。

ほうれん草

三歳から琴を習い、長じてはクライミングに夢中だった私は指の力がやたら強い。そんな私が調理の中で最も苦手な工程のひとつがほうれん草絞りだ。握力が強すぎてどれぐらいの力で絞ればいいのか未だに分からない。茹で上がってペロンとした情けないほうれん草の葉っぱを見ながら、「これぐらい…?もうちょっと…?絞ればまだまだ水出てくるけど…」とゴリラが繊細な花びらにおっかなびっくり触れるようなテンションで恐る恐るやっている。

たいていは固すぎると言われるし、自分でもそう思う。鰹節はカチカチで指跡のついたほうれん草の上で落ち着きがないし、味ぽんは滲み込んでいかない。数日前のほうれん草も不幸にもそういう感じで、「ああ、またやってしまったな」とうなだれていた。そんな私の目に飛び込んできたのは、握力に屈して千切れ、シンクの水流をもがく瀕死のほうれん草の深い緑だった。あぁ、めっちゃ緑や…。そういや、最近みどりのことばっか考えてるなぁ…。

緑のチューリップ

ほうれん草の葉っぱを見送りながら思い出していたのは、小学校1年生のときに「チューリップには緑色もあるよ」と教えてくれた男の子のことだ。

私自身は、冬に植えたチューリップの球根を待ちきれずに掘り返してしまうような情緒のない子供だったが、彼は違った。

「どんな色のチューリップが咲いていましたか?」という先生の問いかけに、教室のみんなが赤!黄色!ピンク!と次々と答えて落ち着いてきた頃、彼の手はまだ挙がっていた。「他にどんな色を見ましたか?」という問いに彼は答えた。「僕は緑のチューリップを見ました。」

私はこのとき、ハリセンで頭をスパーンと殴られたようなショックを受けた。「うわぁ~!!すごいな!!すごいなぁ~!!」と、頭の中がわ~っとなって、興奮したまま帰宅し、そのまま家族の一人ひとりに一連の流れを熱く語って聞かせた。

「蕾だけど花なんだ」ただそれだけのことが私を興奮させていた。

当時の私の愛読書は「きっちょむさん」で、とんち話を親に読んでもらってはゲラゲラ笑っていた。今思えば、とんちというのは自分が思いつきもしない刺し方をしてくるものであり、私は今でも自分とは違う視点から気づきを与えてもらう体験が好きなので、こういう部分は幼い頃から変わっていないなと思う。

彼が言う景色は、当時学校の花壇にもあったし、家の庭にもあったはずで、私も何度も見ているはずなのに認識できていなかった。あると思って見なければ、見ていても見えない。そんな真理にいち早く到達していた彼の感受性と観察力には未だに感動してしまう。

そんな訳で、私は春になると緑のチューリップを探すという癖がある。もうずっとやっているのに案外しっかりと発見できないものなのだ。ズボラな私はチューリップが咲き始めた花壇を凝視し、近々咲きそうな緑を見つけては「おった!おった!!」というズルをしてはやり過ごしている。

4月も後半となり、もう夏が始まるのかという気温のなかでこの記事を書いている理由はひとつ。時すでに遅し。風に揺れる頼りないチューリップの花びらは豪快なイナバウアーをきめており、私は今年もやっぱり見逃したのである。

韓国のミドリ

先に断っておくが、この話は何のオチもない。だいぶ前から薄っすら思っていたのだが、韓国の映像作品に映り込む緑色(自然ではなく、人工物)って、すごく綺麗じゃない?

制服の緑、看板の緑、屋根の緑、どれもこれもが私に刺さる色合いなのだ。一方、日本では鮮やかなグリーンを使う事が多く、韓国のように深みのある緑をメインでもってくることがないように思う。韓国の映像作品から目に飛び込んでくる色彩はやたら緑が目立つ。

日本と韓国は似ているところも多いけど、色彩に関する感覚はかなり違うように思う。これは普段見ている海や空、食材や気候の違いから影響しているのだろうか。唐辛子の補色だから?いやはや、わからん。全く見当違いのことを言っている可能性も高いが、いつか韓国の方に根掘り葉掘り聞いてみたいし、韓国で緑のシャツを買いたい。

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