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書籍「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」/遥 洋子

【書評】★★★★☆(75点)

この本をお薦めしたい方

学び直そうとしている全ての方。色々な経験を積んで、再度学問と出会う筆者の瑞々しい感性が眩しい。世界を理解するために学ぶ重要さを知り、また、その方向を目指す方は、彼女の姿勢から勇気づけられることも多いだろうと思う。

そして「言葉」の重要性に気づき始めた方。その理由がこの本には書いてある。

内容について

この本からは発見が多かった。遥洋子氏は日本の第一人者である上野千鶴子(東大教授)にフェミニズムを学んでおり、そこでの様子を伝えるエッセイとなっている。この本は土台となる社会学、そして「学び」の本質に迫っている。

全編を通して、引用される言葉たちの重みもさることながら、「思考の枠」を取り払うことの難しさと重要性など、本質の深い部分まで筆者が気づき到達していることが眩しい。そして、文章がまた面白いのでケラケラ笑いながら読めると思う。

幾つか心に残った言葉をシェアしたいと思う。まずは、女性の抱えるジレンマだ。私も仕事をする上で、これらの振る舞いに悩んだ時期がある。

男並みにがんばると「女らしくない」ので「劣等」、女並みにおとなしくしていると「やはり、しょせん女」なので「劣等」、結局、どういう生き方をしても「女の劣等性」から抜け出せない仕組みになっている。

織田元子「フェミニズム批評」

結婚について、ゼミの学生と話す遥洋子氏が「一人はええで。エアコンがまず、自分の好きな温度やろ。」と話し出す。そして・・・

エアコンの延長に家事があり、育児があり、介護がある。ケンカのむこうに権力闘争があり、あきらめの向こうに支配がある。

遥洋子「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」

常々、なぜ体力的に有利な男性が、こうも家事をしないのか不思議であったが、さらにそれを裏付ける経済学者による言。「労働家畜」というワードの持つパワーよ・・・経済学が排除している人間の生きる営みについても深堀られていく。「愛」「母性」は現在進行形で利用されているイデオロギーだ。

両性の平等を謳う日本国憲法のもとで愛によって自発的に婚姻をむすんでいるはずの現代日本の妻たちが、「労働家畜」であるなどとは考えたくない。それにしてもこの平等夫婦のあいだで、妻は育児、介護を含む家事労働の九〇%以上を担いながら長時間の「パート」就労で家計を助け、「働きすぎ」のはずの夫よりもなお短い自由時間、睡眠時間しかもたない、という統計的な現実をどう解釈したらいいのか。

大沢真理「家事労働は搾取されているのかに答えて」

膨大な文献に対して、遥洋子氏は仕事の合間と睡眠時間を削ってしがみついていく。理解できそうにもない文献にも挑戦していく彼女の絞り出す言葉が、これだ。

「見逃さない。どこで、どんな言葉に出会えるかもしれない。」
苦痛は感動への序章。持続は感動への期待。集中は感動への執着。

遥洋子「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」

学びが感動に繋がることは多い。幾千のノックの後で、それは訪れる。そんなことを体感しながら学び続ける遥洋子氏は、いつしか「知の占有」について思いを馳せていく。

レヴィ・ストロースは「親族は女性を交換するためにある」といった。マルクスは「使用価値」と「交換価値」をわけた。
橋爪大三郎はいう。「価値あるものだから交換されるのではない。交換されるから価値がある」
—-
女性もお金も、そのもの自身は動物と紙切れにすぎない。交換システムのなかで、初めてあらゆるものが価値をもつ。じゃ、知は?(中略)この私ですら、知の必要と責任を感じてここまでやってきた。じゃ、ここの学生には、選ばれし特権的エリアで知と戯れる人間には、そこまでの自覚があるのだろうか?

橋爪大三郎「はじめての構造主義」、遥洋子「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」

確かに、学問とそれを選考しない庶民との間には相当のギャップがあるように思う。これを繋ぐのが、自分のようなニワカであったり、食い散らかし人間なのかとも思う。そして、「知と学問」それに挑む姿勢について次のように触れている。

「幸せ」はひとつという社会教育の弊害かもしれない。(中略)それらすべての「幸福感」はどうやって形成されるのか?目の前の現実はそうじゃない現象をも、まざまざと見せつけているというのに。
実際には、どっちか、ではなく、どう見えるか?見抜く力があるか?によって、「幸せ」など、いかようにも姿を変える。
人は目の前の現実を見る力もあるかわりに見ない力もある。見えるように努力もできるが、見えないようにも自ら努力する生き物だ。

遥洋子「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」

そして、あとがきでこのように述べている。

社会学が私にくれたもの、それは、「言葉の世界」でした。
言葉をどう使うかで、人はものを見ることができるし、見ないこともできる。見せなくもできるし、見えなくもできる。そして、見破ることも。

遥洋子「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」

偶然にも、ここ数年私が触れているのも社会学(フェミニズムもここに入る)だ。自分の言葉への執着が繋いだ道でもある。「言葉」は本当に大切だ。まだまだ未熟だが、できるだけ敏感でありたい。

そして、学びの成果として彼女は次のように締めている。

抑圧する言葉がなぜそのように機能するのかを知ることで、それはもう抑圧効果を、少なくとも私に対しては失いました。
誹謗中傷する言葉がなぜそのように成立するのかを知ることで、それはもう武器としての威力を、少なくとも私に対しては弱めました。

遥洋子「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」

学ぶことの希望を感じる。

その他雑感

2つ印象に残ったシーンがある。ひとつは、公開ゼミに参加した女性が「もっと早くフェミニズムに出会っていたら人生を棒にふらずに済んだのにという思いで今日は参加しました。」と話すシーンだ。彼女は58歳で離婚し、現在61歳であるらしいが、容貌はその年齢に見えない程老けていたと描かれている。大切な観点だし、女性にとって非常にリアルだ。

そして、一番心に残ったのは、自分の能力について悩む遥洋子氏が上野千鶴子氏と話すシーンだ。18歳で不合格となった大学で皮肉にも講師を務めることになった遥洋子氏は、自分にそんなことができるのかと悩みを打ち明ける。そんな彼女にかけられた言葉は「それは大学にあなたの能力を18歳の時点で見抜く力がなかったのよ。大学に力がなかったの、あなたに能力がないわけじゃない!」

そして、上野千鶴子氏は「直感」の大切さについても触れている。ぜひここは、本書を読んでほしい。学び直そうと思う方を勇気づけてくれることと思う。

私には教養がない。記憶力も悪い。それもすこぶる悪い。皆がさっとできることをできないことも多い。ズボラなので悩み続けることもないが、コンプレックスといえば、コンプレックスなのかもしれない。

そんな私が意外かもしれないが、言葉への執着を起点として、自分の能力の及ぶ範囲で、学ぶこと・考えることを止めたことはない。まぁ、適度に過度にサボりながらだが、就職後もずっとそうだ。学術書や論文を読むわけではないが、主に本や映画、そして旅などのエンタメを通して感じ、言葉を集め考えることを続けた。記憶力がないゆえに、何度も愚直に再計算した。たぶん、これが大切なことなのだと思う。アホだから学べるし、アホだから知る喜びがわかる。先を突っ走る偉人から、一方的に恵んでもらえる。割とラッキーだと思う。

新しい言葉を探しに行こう。それは新しい世界への扉だ。

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