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映画「誰もいない部屋」生者と死者のはざまで

アジアンドキュメンタリーズ配信「誰もいない部屋―生者と死者のはざまで―」【日本初公開】予告編

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【感想】★★★☆☆(60点)

概要

未婚の25歳の息子の氏を知ってから30分後、母親は反射的に精子保存を申し出る。その凍結精子とボランティア卵子提供を受けて代理母出産を希望する両親の法廷闘争を追うドキュメンタリー(イスラエル)。

感想

凄まじい。ここまで名前の継承にこだわる文化的な背景がいまいち理解できないというのが正直なところだ。

この映画が本質として浮かび上がらせているのは、死後の精子を使用されることの倫理的な側面ではなく、自分の能力を超えた解決策を無理矢理その手に掴んでしまった場合の苦悩であるように思う。

息子を偲ぶ方法を思いついてしまったがゆえに、この夫婦はいつまでも悲しみに囚われ解放されない。当然、悲しみは絶えず隣にあり、死ぬまで消えることはないだろうが、それが息子を愛したという歴史でもある。その痛みを抱きしめて生きるのが人間なのではないだろうか。

母と息子

この映画を視聴しながら、ずっと考えていたことがある。母と息子の結びつきについてだ。

私には兄が2人いるが、母親の愛は私よりも兄2人に向いていた(と私が感じている)。特に次兄への母の愛は溺愛に近い。私から見ると母と次兄は似ていた。母は自分を肯定するように次兄を肯定し、自分を愛するように次兄を愛した。結果、自分がして欲しかったように次兄を甘やかした。これらのことは、私のなかではとても悲しい思い出だが、割と多くの家庭で起こっていることのようにも思う。

母親にとって娘とはなんだろうか。共感しやすく、味方になりやすく、どこか存在を軽んじられ無視されているように感じることもある。私自身、母に対しては複雑な思いがある。大切に思うが、あまり関わりたくない苦しい相手でもある。

劇中の母は、娘が死んでも同じように嘆き悲しんだだろうかとずっと想像していた。この両親に対して、とりわけ母親に対して、娘2人がどのように感じているかを知りたかった。(劇中に娘のインタビューはない)

死後に自分の精子を勝手に使用されるなど、想像するにおぞましく、たとえ親であろうとも許されることではないと私などは思うが、その思いを一瞬で超えてくるような勢いがこの母親にはある。有無を言わせぬ重量感だ。

これは、やはり母になった者でなければ分からないのかもしれないと思い、私はそこで考えるのを止めた。この件について、どうこう議論をすること自体が不毛に思えたからだ。やはり、冒頭でも書いたが、「喪失」に対する万人向けの解などない。

息子の使っていた地下室は、新婚カップルのものになった。少しずつ家具の配置も変わっていく。ゆっくりと悲しみが薄れ、涙を流しながらでも柔らかく記憶を思い出せる日が訪れたらなと思うし、それに伴走するのが裁判という形であるだけかもしれない。

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