サイトアイコン だだっこぶたの小唄

アニメ「呪術廻戦」

TVアニメ『呪術廻戦』PV第1弾

Amazonプライム・ビデオはこちらから

はじめに

ちょろっと観始めたら面白かったのでオススメしてみたい。

本作品は、原作コミック(連載中)のアニメ化&現在放映中であり、アマプラに全エピソードがまだ揃っていない。でも面白いので大丈夫。原作未読でも十分楽しめた。

わたしはアニメに詳しくない。アマプラでチョイチョイつまむのだが、最後まで観るものは少ない。最近はCMで見かけて、絵柄とストーリーが気に入ったので「憂国のモリアーティ」を、誰か知らんがイケボ目当てで「バビロン」なんかを、作業用BGMとして、チラ見して聴いた。どちらも途中で放置しているのでまともな感想でもないが、前者は登場人物が魅力的だった。後者は何かの小説や映画と似てるなと思って、既視感があり興味が削がれ作業が進んだ。

私はこのように、重いものを観たくないとき、あまり深く集中したくないとき、軽い雑音と刺激を入れたいときに邦画やアニメをよく利用する。

今までちゃんと集中して視聴して好きだったなぁと思うのは、「プラネテス」「十二国記」「ヒカルの碁」ぐらいしか、すぐには思いつかない。こりゃちょっとアニメに詳しい方には、3回転生してから出直せと言われるレベルかもしれないが、素人だから感じたこともあるので時間があったらつきあってほしい。

また、本記事ではジェンダーについて触れている。記述の都合上、男性・女性とマクロ的に書き分けているが、私は成熟した男性・女性の存在もちゃんと知っている。「男性」「女性」という大きい属性に自分を寄せすぎることなく、「こう感じている者がいる」というシンプルな事実として、フラットな気持ちで読んでいただけたらと思う。私は誰も攻撃していない。あなたにひとつのサンプルを提供し、大切なトピックを議論のテーブルに乗せようとしているだけだ。

少年ジャンプ、読んでたなぁ

作品について語る前に、前段として少し個人的な周辺の経歴を書いておこうと思う。

自宅から徒歩10分にネットカフェがあることも影響して、コミックは現在もちょいちょい読んでいる。雑誌自体は購読していないので、オススメ棚のものや話題のもの、ストーリーが気になるもの、ランキングやレビューなどから適当に選ぶ。雑誌を購読する習慣のない昭和生まれの私が、コミックを手に取るかどうか選ぶのは多少の前情報と直感によるジャケ買いが基本だ。少年漫画であれ少女漫画であれジャンルで区切ることはない。出会いはギャンブルだ。

昭和とは、兄1に「ジャンプ買ってきて。後で読ませてあげる」と200円をチャリンチャリンと渡され、兄2に「早く売ってくれるあっちの店行ってきて。おつりはあげる」とパシらされた時代だ。

昭和にレビューサイトという気の利いたものはなく、コミック購入は兄達との共同出資だった。末子でチャンネル権さえ持たない私は、いつも出てきたものを読むだけだったが、一緒に楽しくジャンプ系を読んでいた。初萌は北斗の拳のレイかジュウザだと思う。何よりレイは声が良くてチョコレートまでくれる。成長したバットも素敵だったし、北斗の拳は魅力的なキャラが多い。私の気が多いのはこの影響だろうなと思う。皆とちょっとずつ付き合いたい。

小学校中学年になって自分のお小遣いで漫画を買うようになってからは、「なかよし」なんかも数年購入していたように思うが、ストーリーはあまり理解しておらず付録が目当てだった。当時は簡単なペン立てや小物入れなどの組み立て系が多く、あれがとても好きだった。ズボラだから説明は一切読まない。適当に折り目を辿って形になっていく行程が楽しかった。連載という形式が苦手だったこともあり、辞書2冊分ぐらいある読み切り系を買うか、コミックになってから噂や勘でジャケ買いするタイプになった。

本格的に少女漫画として物語を読んだのは中学校に入ってからだ。友達に貸してもらった「王家の紋章」がきっかけで、この世界観が私の恋愛観にも好奇心にも大きくアホな影響を与えているように思うが、それはまた別の話。簡潔に言うと、愛されながら何度も古代やいろんな国へ行ったり来たりする最強運トラベラーであるキャロルの立ち位置に憧れた。エジプト展とか行っちゃった。

こう言っちゃなんだが、あの絵があったからこそ、私には脳内に完璧な「美しさ補正システム」が構築されている。当時こそ素敵な衣装、見たことのない景色だなぁと思っていたけれど、中段からよくヒーローのファラオが半裸で白目剥いてた。

そんなわけで、網羅的ではないにせよ、なんとなく漫画の表現方法の変遷や、少年漫画と少女漫画の違いも少し知っている。そして、その表現の受け止め方が、子供だった頃の自分と40代の現在では違ってきていることもあり、そのあたりを伝えていきたい。

作品のなかのジェンダー

2021東京五輪にまつわる炎上リレーの今こそ、やはりこれを語るべきだろうと思う。例を挙げていきたい。

1)宮崎駿作品

巨匠・宮崎駿作品について少し思うところがある。全ての作品を視聴しているわけではないが、私が特にこりゃあかんと思ったのは「風立ちぬ」だ。作品自体がどうこうではない。彼の作品中に隠されている思想は、現代アートのようにコンセプチュアルで読み解くのに知性と技量が要る。私は補助がないとそれを読み取りきれない。そういう意味で、作品中の登場人物はそれを描き出すための道具に過ぎず、その点は理解している。

しかし、本作品中のヒロインは主役の男性に比べて描き方が本当にひどい。彼女には「人格」がない。背景となる歴史・思想・記憶がなく、何か儚いものの象徴であるだけだ。要するに、キャラクター設定自体に非常に雑なものを感じる。彼の作品にはちょいちょいそういうところがある。女性キャラクターには時系列のアクションだけがスケジュール管理されていて、その動機や背景に奥行きを感じないことが多い。そういう意味で、私の妄想のなかで、女性キャラクターが息づいて自立して動くことは少ない。情報が全然足りない。

「それが何だ」と言われそうだが、アニメを始めとするエンタメ作品の影響範囲は計り知れない。柔らかい段階の子供が視聴することも多く、作品中で表現されている関係性を辿るような行動を人間はしがちだ。それが好きな作品ならなおさらだ。

作品中の女性に人格がないことは、現実の女性のなかに人格を見いださないことにつながっていく。

大口を叩いて申し訳ないが、宮崎駿は女性を描けていない。このことが長期的には作品としての影響力さえも失わせるだろうと思う。

2)村上春樹ファン

村上春樹の小説も象徴的だ。随分前に数冊読んで放り出したので、最近のものは知らないが、彼の作品中の男性キャラクターが語る女性像には違和感が強く、男性キャラクターそのものに臭うような何かがある。

作品自体や作家本人がどうこうということではなく、過去に私が出会った村上春樹ファンの男性2人がキツかったことを伝えたいだけだ。どうか誤解しないでほしい。

決して悪い人間ではない。むしろ誠実そのものだった。付き合うことはなかったのでうろ覚えだが、ひとりは何か楽器をやっている理系で、もうひとりは不動産鑑定士を目指して勉強中だった。どちらも落ち着いて知性的で、とても素敵だったが何かがはまらなかった。

私は誰かと出会ったとき、オススメを聞くことが多い。映画でも音楽でも旅行先でも、人間性や思考・感性を辿る上でとても有効だからだ。この二人はいずれも村上春樹が好きだと答えた。実際これが私が彼の作品を読むきっかけとなったし感謝している。

勧められた作品を自分で確認して感覚の違いを楽しむのが、恋愛ポンコツである私の悪癖だ。感覚が違って分析する方が楽しいのか、共通点を見つけた方が嬉しいのか、自分のなかで答えがないままに、そんなことを延々とやっている。多分、サンプルを採りたいんだろうと思う。人に対してまっすぐな興味を持てない部分は、自分でもどうかと思うし後ろ暗いところだ。

今思えばいずれも内向型で、ある程度気の利く男性だった。申し分ないように思えた二人に共通していたのは、思考の癖や固定観念の枠だった。

固定観念は誰にでもあり、思考のコストを省略するために必要な装置でもある。私にもガチガチにある。それ自体は自然なことなのだが、自分の思考を閉じ込める枠の存在を、常に意識しているかどうかで人は大きく変わってくる。人に相対するときには、その枠を可能な限り意識して外し、あらゆる角度で再検証するというのが誠実性だと私は考えている。これはかなり疲れるので、私も全員に対して行っているわけではないが、慣れてくるとオートで他の可能性に気づけたり、ジャッジを先延ばしにするよう直感が手助けしてくれる。

突き詰めてしまえば、失礼ながら二人にはその能力がなかった。単純に私が引き出せなかっただけかもしれないが、面倒くさがりの私は伸びしろのなさを早々に見限った。こういう臭い部分は「言ってから気づく」タイプだと個人的にしんどいのだ。できる人は最初からできる。自分が相手に求め過ぎなことは自覚している。優劣ではなくシンプルに相性だ。

二人はとても真面目で、ミソジニストでもなかったが、私のなかに何か別のものを見ているような感覚が常にあった。当時は本を読むタイプがここまで観察力がないのはなぜかと不思議だったが、後に、村上春樹ワールドに引きずられているのではないかと仮説が立った。

作品は彼らを魅了し、女性性やそれとの関係に対する理想的なサンプルを一定与えてしまったのではないだろうか。彼らはどこか、そのままの私を観測するのではなく、実像を理想や物語に寄せていくような捉え方をしており、居心地が悪かった。

夢見がちが悪いわけではないが、このような、相手を勝手に理想化して、人格をもたないモノとして扱うような行為は、フィクションを対象とした時だけにギリギリ許されているのではないだろうか。仮に私から鼻毛でも出ていたら舌噛んで死ぬのかもしれない。

私は彼らと向き合っているときに、自分の存在が自分自身として扱われていないことに勝手に傷ついてしまった。以来、村上春樹ファンは私のなかで地雷となった。サンプル数がたった2つの実証性に乏しいこの仮説はきっとたまたまで、まったくアホな偏見による差別だが、自分のパートナー選びに限定して、私はこの地雷避けをしている。ズボラだからだ。

安直に誤解しないでいただきたいが、私もかつて彼の作品を楽しんだ一人であり、村上春樹ファンの人格否定をしているわけではない。「ノルウェイの森」のロケ地である砥峰高原(とのみね高原)にまで足を運んだこともある。ファンには素敵な人が多くいるのはよく分かっているが、見極めに時間とパワーを使うのが面倒でしんどい。個人的なことなので私はこの作業を徹底的にサボりたい。私は鼻毛も伸びる生身のズボラなので、お互いの幸せのために出会わない方がいいのだ。

少し話がふんわりしたが、女性は男性作家の、男性は女性作家の小説やコミックを読んでみると発見が多くて面白いと思う。

3)ゲーム

古い話で恐縮だが、私も大学生の頃ぐらいまではゲームをしていた。今でも多分好きだが、やりだすとハマってしまって時間が足りなくなると分かっているので老後の楽しみにとってある。

一番ハマったのは、「ファイアーエムブレム 聖戦の系譜」という戦闘シミュレーションゲームで、攻略本を片手に何周したか分からない。キャラクターが動く系は運動神経が死んでいるのでどうにもならない。

それはさておき、子供の頃に「ファイナルファンタジー」の何個目かは分からないが、カエルになったり竜騎士になったりする面白いバージョンを兄と遊んで楽しかったことがあり、ふとそのことを思い出して、大学生の時に新バージョンを買ってみたことがある。なんか冬景色から始まるやつだった。

これがまぁ、つまらなかったのだ。ゲームシステムそのものではない。ストーリーが壊滅的だった。絵柄も美しく魅力的な男女が登場したが、どうにもそそらない。動機づけとなる恋愛エピソードもあるのに、その情緒的な部分が描けておらず、一瞬でソフトを売り払った記憶がある。

最近のシリーズはどうか知らないが、この時のファイナルファンタジーは男性キャラの人格さえあやふやで、根幹となる動機の部分である愛を描けていなかった。そして同様に美麗に装飾されただけの抜け殻である女性キャラは、何かのきっかけづくり(たいていは悲劇)に利用されるだけで、まるで人格と背景がなかった。結局これに失望したのだろうと思う。

「だから何だ」と思うかもしれないが、人口の半分を占める女性性の表象を粗末に扱うことは、マーケットから女性の退却を促す。長期的には株価が低下し、文化そのものが滅びることに繋がる。

そして、呪術廻戦

前段が長くなったが、「呪術廻戦」の魅力について語っていきたい。ストーリーの魅力については省略する。是非まっさらな状態で観てほしいのでネタバレは一切なしだ。

1)アニメ技術の進化

アニメの技術に対して無知だったので、とても驚いた。いつの間にアニメはこんなことになっていたんだろう。本当に凄い。感動した。制作現場のドキュメンタリーがあったら是非視聴してみたいし、むしろ積極的に取材を入れるべきだと思う。

カメラアングルの切り替えとカット割は映画を凌ぐような出来栄えだ。縦横比が操作できるアニメの方がより遠近感やスピード調整が効くのか、ずば抜けているような気がする。カメラワークも最新の映画のような躍動感と面白さがありワクワクした。

そして何より、キャラクターに重力があることにビックリしてしまった。どちらの足に体重がかかっているかまで分かる。凄い。個人的にアニメの戦闘シーンはややこしくて結果だけ教えてくれと思う程度に苦手だったが、呪術廻戦はカメラワークとキャラクターの動きが面白いので飽きずに見ていた。

コミックでどこまで動きが描かれているのか知らないが、二次元の絵からここまで動きをアニメで組み立てられるものなのだろうか。体術シーンを組み立てるプロでもいるのかしらと思うくらい、浮遊感・間・カメラワーク・息遣いと音の指向性もなんか凄い。呪術の表現としての色使いも美しく飽きない。綺麗な色をぼんやり見ていることも多かった。

そして、エンディングのダンスが凄く良かった。あれはモーションキャプチャーを使用しているのだろうか。動きで人格の違いまで表現されているので、あのダンスはきっとプロが踊ったと思うのだが、どうだろうか。とにかく凄い。舞台裏が見たくてたまらない。

日本のアイドル役者を起用して映画を作るぐらいなら、アニメを製作した方が演技力もクオリティも上がりそうだ。

2)キャラクター設定

原作未読にも関わらず私がハマった理由の一番はこれだろうと思う。キャラクター設定の奥行きと確かさだ。これがなければ、映像的な技術がいくら凄くても称賛することはなかった。

本作品は、理系的な世界観全体の設計も安定しているが、それ以上に個々のキャラクターについての過去・思想・背景等の設計がしっかりしている。エピソードは道半ばだが、現時点で十分それを感じる。

『登場人物に皆人格がある』

これは結構凄いことだと思う。エポックだ。とりわけ、女性キャラクターに人格があることが現実の女性性の人権を担保し、私を安心させた。結果として、この作品を楽しむことができた。そして、本作品には顔にアザのあるキャラクターや、肢体不自由なキャラクターも普通にヒーロー・ヒロイン側として出てくる。こんなところにも作家の強い意志を感じる。根底がとても温かい。

女性キャラクターに人格があることがどれほど大切か、もしかしたらピンと来ないかもしれないので、丁寧に説明していきたい。

女性キャラクターの人格

1)容姿と人格

人間の容姿と人格の相関については科学的な根拠がないが、例えば、能の感情表現が自然と理解できるように、容姿や表情から個人が感じる印象というのはある程度共有されている。正しさとはまた別の共通認識ではあるが、その感覚をキャラクター設定で強く打ち出してくるのが漫画やアニメと言える。これをうまく使うことで、性格や感情についての説明文を省略することができる。私達は、一応その「文法」に従って、漫画やアニメを読み解いている。日本社会の強固なルッキズムはこんなところが影響しているのではないかと思う。

例えば、呪術廻戦に登場する女性キャラクターはそれなりにグラマラスで、ミニスカートを着用している。現実ではそうそう見かけないようなグラビアアイドル級の胸部が標準装備されているが、別に私はここに不快なエロさを感じない。それは、ひとえに彼女達に人格があるからだ。このような場合、シンプルに魅力的な女性だなと感じる。

以前、「宇崎ちゃんは遊びたい」の献血ポスターが炎上したことがあったが、両者には明らかに違いがある。私はこの作品を見ようとも思わないが、見ていなくても言う。ポスターを見ただけで発言する権利は十分ある。

こんな作品は献血ルームというゾーニングできないシーンにおいて不適合に決まっている。表現するのは自由だが、この作品は女性を性的に消費しており、ゾーニングされた空間で成人だけが恥の感覚を持ってコソコソと消費するしかない程度のものだ。ファンはアホみたいな言い訳をせず、いい加減目をそらさずに自覚した方がよい。

本件については、社会がしっかりとNOを示さねばならなかったが、当時中立スタンスをとる者も多く、なぜ、この程度のことが理解できないのだろうかと、その頭の悪さに暗澹たる思いだった。

怖いもの見たさで、普段は見ないアベマTVでゴミのような議論を確認した。そこには福島みずほ議員紗倉まな氏を始め、数人の女性が臨席しており、「宇崎ちゃんは遊びたい」で過剰にデフォルメ表現されている胸の大きさについて議論をしていた。アホみたいな議論だ。マジでしょうもない。こんな議論をしている先進国はない。

たしか「胸の大きさでキャラクターを性的だと言うなら、胸の大きい女性はどうなっちゃうんですか!?」みたいなゴミのような意見が紗倉氏からあったように記憶している。本当にバカバカしい。実物の人間の女性は、いくら胸が大きくても人格がある。性的魅力があったとて、決してそれだけには支配されない。しかし、明らかに誇張されすぎた胸と緩みきった表情をもつキャラクターからは人格と尊厳が感じられず、性的消費対象としての女性の表象となっていることが問題なのだ。

性的消費について数値化しづらい感覚を逆手にとって、議論をむやみに相対化し中立化しようとする動きが当時あった。本当は「不快だからやめろ」で十分なはずだが、人権後進国ヘルジャパンでは、こんな簡単な話も通らない。

出版をやめろとは誰も言っていない。ゾーニングしろと言っているだけだ。当時どなたかが言っていたが、例えば「宇崎ちゃん」のクリアファイルで閉じた書類をビジネスシーンで差し出せるのかという話だ。本当は理解しているくせに図々しい。

2)エロ表現について

全年齢対象の漫画やアニメにおけるサービス的なエロ表現が私は好きではなく、シンプルに不快だ。例えば、パンチラがあったり誇張されすぎた胸の描写で一気に冷める。加えて、女性の人格がない作品を近年受け付けなくなってきた。単純にもう疲れたのだ。サービスエロとひとまず表現したが、実際は人権蹂躙エロだ。

ひとつ悪い例を挙げたい。アニメ「Dr.STONE」だ。オススメしないし、観る価値もないが、ミソジニーのわかりやすい1サンプルではあると思う。

いやまぁ、絵柄から既に駄目臭がしていたのに、「人類が石になる」という荒唐無稽さとレビューの★の多さで再生した私もアホだ。好奇心に負けて「どゆこと?」と1話を観てみた。「7SEEDS」的なものでは一切なかった。

1話にヒロインが登場するシーンがある。ここで「クソかも?」の予感が「安定のクソですね」に変わった。絵柄に感じた私の直感は正しかった。こうやって直感は磨くしかないので、必要経費と割り切り、人生の30分をドブに捨ててミソジニー研究対象として視聴しきった。

まず、ヒロインの登場シーンが、アイドル風の媚&ぶりっ子スタイルでの微笑みとなる。肩のすぼめ方とか色々キツイ。この時点で、この作家が男性であり、都合良く理想化した意志のない女性キャラを、男性キャラが頑張った証の獲得物として作品中で描くだろうことが予測できた。

この感覚は数値化できないため証明のしようもないが、私は、このヒロインキャラには人格がないと判断した。何かしら可愛いものの象徴で、男性を受け入れる象徴で、動機や目指すもののシンボルとして都合よく扱われており、彼女にそれ以上の設定が一切見えてこないからだ。

日本社会では、幼いままで成熟しない男性が多く、女性に「聖母・無垢・娼婦・保育士・介護士」の役割を求め踏みつけ続けているが、この作品にもしっかりとそれがある。

特にきつかったシーンは、ヒロインのパンチラシーンだ。「女子高生」の表象を使った女性キャラのミニスカートの後ろ姿を、「地面から撮っているのか?」とでも思えるような角度で舐めるようにアングルを上向けていく。そしてそこには、エロ特有の局部の描写があった。念の為付け加えておくと、このカットに必然性は全く無い。吐き気がする。

「だから何だ」とファンは言うだろうか。この撮影が実際の女子高生に行われていたら犯罪だ。それがフィクションだから許されるわけではない。守るべき子供である「女子高生」の表象を使い、それを貶める行為がどうして正当化できるだろうか。

さいごに

長々と書いてきたが、軽く締めておきたい。昨今では漫画やアニメ、サブカルへの偏見がかなり緩和されてきたと感じるが、大人こそ、たまにはこの分野を軽んじることなくチェックしてみてほしい。

何故か。アニメなどのエンタメはマスに広く到達し、これらを視聴した子供たちが、成長し、次世代を担っていくからだ。

何を観て、どう感じ、どんな世界観に魅せられたかは、人格形成に大きく影響する。思えば、私が最初に「死」を深く考え始めたきっかけとなった「火の鳥」シリーズは、私の思考や人生に大きく影響を与えている。柔らかい段階で受けた衝撃は強く残る。文化水準と人間の成熟には密接な関係があるため、どのような人間達が次の中核となるのか予測する手助けになるだろう。

話題となった「鬼滅の刃」についても同じことが言える。私は原作未読、アニメをチョイ見、映画未視聴、ストーリー&映画評を既読という、時間不足で妙なスタンスだが、この作家がやろうとしていることを間接的に理解している。

「次世代に何を残すか」を意識して作品を作っている。自分にはその力があることを自覚し、良きものを残すために力を使うべきだと考えているのではないだろうか。今の時代に、ただ描きたいものを描くのではなく、必要なことをやろうとする意図を感じる。

このような作家が少しずつ増えている。現在放映中のドラマ化は失敗しているが「ここは今から倫理です」「違国日記」は、私が今注目しているコミックだ。ドラマ・倫理~については、センシティブであるため避けたのだと思うが、自殺未遂のエピソードは描くべきだった。今この時代に「絶望」についてしっかり伝えておく必要があったと私は思う。紆余曲折を経た台本であったと思うが、少し残念だった。

記事中に出てきた作品のリンクを貼っておくので、興味があったら覗いてみてほしい。

参考

「プラネテス」

宇宙ステーションでゴミ掃除屋として働く人々のドラマ。物語の収束感がたまらない作品。原作も良き。

「十二国記」

世界観とひたすら硬派なキャラ達が好きな作品。

「ヒカルの碁」

キャラクターの誰もが自分自身と闘う。恋愛要素がないのもなんだかホッとする。

コミック「ここは今から倫理です」

人間の心の動きや言葉集め、多くの気づきが得られる作品。

https://www.youtube.com/watch?v=8j-7b80kjg8

コミック「違国日記」

これほど丁寧に描かれている作品を久しぶりに発見した。こころ。

https://youtu.be/uXwNhpVPcWI

ジブリ映画の読み解き

映画評論家・町山智浩氏による解説。動画は3つに別れていて長編だが聴き応えがあり面白い。多くの観点と気付きを得られると思う。

モバイルバージョンを終了