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バチェロレッテ2 #02

(C)2022 Warner Bros. International Television Production Limited

はじめに

今回は、epi04-06視聴後のレビューです。(前回epi01-03のレビューはこちらから

見どころが迷子だ。前回epi01-03のレビュー時に、香川照之に触れてない割に文章が長いと不思議に思っていた。人物雑感も散漫な気がして過去記事を読み返すと、淡々と印象のみに纏めてあり、少なくとも妄想はしていなかった。

ズボラで忘れっぽい私は、いい感じに言えば「昨日の私は違う私」ぐらいのスピードで新陳代謝をしており、レビューの書き方を忘れているのも通常運転と言えばその通りなのだが、一応言い訳しておくと、やはり全体的に印象が乏しい。これはバチェラー4とも通じる話で、決して主役が悪いわけではないが、フィーリングで行動する主役と、論理をミックスして行動する主役では、引き出せる人間性に大きな違いがあるように思う。今回の主役はアクティビティの選定や会話に人間性を引き出すための戦略がない

ここで私はひとつ提案したい。飛び込みやムエタイなんて生臭い演出はやめて、エピソードをひとつ潰してでも、「人狼ゲーム」やろうや。彼らの思考を辿りたいし、嘘をつく時の顔が知りたい。成立するかは分からんが、人狼多めで是非やってみてほしい。そういったゲーム要素でもなければ、とても最終話までこちらの気力が保たない。いつも記事中では演者の台詞を織り込んで遊んでいるのだが、今回はまだ「ウフフ」ぐらいしか印象に残る台詞がないので困っている。

今回は、「演出の非対称さ」や「守るという謎ワード」についても語ってみたい。ウフフ。

ミステリー並に人が死ぬ

epi04の視聴開始からしばらくして、唐突に集中が切れた。香川照之の供給が足りずにやさぐれていたせいかもしれないし、アイスの食べ過ぎでお腹が冷えていたせいかもしれない。

あまりにしょうもなく、ダラダラとした映像が苦痛だったので、ながら見することにした。すまんが、今回の観察眼は70%オフだと思う。あのバチェラー4でさえ、ここまで低調ではなかった気がするので、残念だが、本当にもうこのシリーズはオワコンなのだと思う。

中道理央也氏が毎度母親の死に言及するのも個人的にはしんどかったし、くどく感じた。初回はバチェロレッテからの質問を受けて仕方ない部分もあったが、そもそも、早すぎる段階で親しい者の死について触れるのは、禁じ手だと私は思う。第三者であってさえ見ていて負担があるし、バチェロレッテなら尚更だ。言った方にはそれなりのストーリーと整合性があるのかもしれないが、避けることもできない相手に、この程度の関係性で重い話をするのは、当たり屋的な暴力だと思う。

立て続けに死にまつわるエピソードが語られ、最終的にジェイデン氏からの質問を受けて、バチェロレッテは現在の彼女の生き方に繋がる「親友の死」について語った。

これを見た瞬間全てが繋がり、完全に冷めた。ここまでが脚本だ。今回のショーは主役のプロモーションが完全にお膳立てされており、彼女の軸のひとつである「親友の死」エピソードを語らせるための誘い水として、同じようなエピソードを持つ者が集められ、演出として語ることを求められていたのだろうと思う。そして、このようなエピソードを取りこぼさないための家族訪問イベントだと考えると、リアリティショーとはなんとも巧みに設計されている。

これは穿った見方なのかもしれないが、あの程度の人間関係で「大切な人の死」について自発的に語るだろうか。私なら絶対に話さない。まだまだ心の奥底に触れられたくないし、衝動的に同情されたり共感されたくもない。彼らは、リアリティショーという特殊な環境でなければあの話をしていないし、失礼な表現になるが「お涙頂戴」が有利に働いてしまうのもショーの醜悪な特徴だ。彼らはあれ程プライベートな事を全世界へ向けて話したかった?本当に?あの会話にそこまでの必然性はあった?避けては愛や信念を表現できなかった?本当に?私はそうは思わない。

キャラ立ちの甘さ

主役を含め、ほとんどの演者に興味が持てない。唯一ジェイデン氏は剥いたら面白そうだが、ショーの展開スピードにもう間に合わないだろう。

(C)2022 Warner Bros. International Television Production Limited

おそらくファイナリストであろう長谷川惠一氏も、あまりに凡庸で全く興味が沸かない。会話もつまらないがバチェロレッテは楽しそうにしているので、惹かれるというのはこういうことなのかもしれない。二人でジャグジーに入るのは性的に許容していないと無理だと思うので、男性陣には酷な話だが、キックボクシングは茶番に過ぎず、あの日は朝から長谷川惠一氏の勝ち残りが決定していたと思う。泣こうが勝とうが関係ない。

彼と過ごす時のバチェロレッテの表情はリラックスしていて可愛らしく、自分からふざけてみたりと一緒にいる時間を全身で楽しんでいる。「どこが魅力的なの?」と彼に対してだけは聞き返し、じっと見つめて期待しながら言葉を待っている。大ポカがなければ彼で決まりだろう。とにかくバチェロレッテの表情が恋する少女のようでとても可愛いらしい。

マクファーレン氏の執着を除けば、残り二人からは彼女への愛しさをさほど感じないのだが、放送後のことを考えると、マクファーレン氏はショーのなかで切っておかないと切りにくいタイプだ。ジェイデン氏はプロモーションとしての立ち回りに限界がある。そのなかで長谷川惠一氏は、一番スマートなマスコミ対応ができそうであり、かつ彼女を霞ませるほどの強キャラでもない。ビジネスカップルとして割り切っても数ヶ月後にはキレイに終われそうで、恋愛の美味しいとこ取りする相手としてはいいんじゃないだろうか。それを恋愛と呼ぶのならば。

おそらく、次回去るのはジェイデン氏で、最後はマクファーレン氏が去る。マクファーレン氏は自分の立ち位置を把握して動いている気配があるため収まりがいい。この盛り上がらないショーで、唯一の情熱がマクファーレン氏であり、彼が最後まで二番手として競り、物語の後もその熱を外から表現し続けることだけが、このショーのリアリティを保証する。

対話していない

バチェロレッテ2の特徴はバチェラー4と同じく会話のつまらなさだろう。参加者が深いエピソードを語ろうが、バチェロレッテは「そうなんだ」と神妙に受け止めるだけで、そこから一切掘り下げない。また、残っている男性陣もジェイデン氏を除いて誰も彼女に深い質問をしない。もう少し彼女の優しさに甘えた図々しさや踏み込みが出てくるものだと期待していたが、どうもあてが外れた。彼以外、誰も彼女の内面や思想に興味がないのだろうか。ジェイデン氏以外の誰もが彼女よりも勝負を見ているし、互いに興味がなさすぎる。

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最後のデートとなった船の上で、中道理央也氏はこの期に及んで食べ物の好き嫌いの話をしていた。しょうもなさすぎて、ひっくり返りそうになった。あれは合コンの開始1分、飲み物オーダーまでの会話だ。あの時彼女が求めていたのは「結婚観や人生観について、思うところを述べよ」という前回から続く再三の要請だったのだと思うが、筋肉はこの文脈を咀嚼できなかった。こういう時にバチェロレッテは話題を軌道修正しないまま結論を出す。彼女のタイプや判断軸はよく分からないものの、質問に答えられないことを含めて、かなりシビアに判断しているのだろうと思う。この辺りを言語化していたら、ショーはもっと面白かっただろう。

そして、心を持たないミニマリスト思考の私なら、ヘアゴムは速攻で捨てる。なぜその花や色を選んだかも説明しない、付け焼き刃の自己満足DIYは要らない。これで喜んでもらえると思っていた彼は、相当の自信家だなと思う。代わりに彼独自の言葉を用意した方が100倍マシだった。

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一筋の清涼剤、ジェイデン氏についても触れておきたい。彼はスロースターターだったが、ゆっくりと自分のペースでバチェロレッテと向き合っている。彼はこのショーとの相性が悪いだけで、残っている参加者のなかでは、最も己を表現し彼女を深く知ろうとしているように感じる。バチェロレッテには本来、彼のような距離の詰め方をする人間が必要なのだと思う。

バチェロレッテがピアノで弾いた曲をウクレレで返し、彼女の涙を優しく拭い、坂東さんの到着を知らせるベルを聞かせまいと彼女の耳を塞ぐ。全ての行動から彼らしさと愛があふれていて素敵だった。彼との時間はとてもゆったりとしていて、そこだけ切り離された異空間のような豊かさがある。

演出の奇妙さ

個人的に違和感が大きかった演出が数カ所ある。まずは、本人が選んだとはとても思えないバチェロレッテの黒い水着だ。毎度バチェラーシリーズの女性水着はセンスを疑うが、あのサイドがガラ空きでボディラインに合わないハイレグすぎる水着は、これまでのファッションと比べても彼女のキャラクターに合致せず、「ああ、サービスショットのために着せられたな」としか感じない。見世物になっているような全身ロングショットが数秒と短かったのだけが救いだ。対して、ジャグジーで着用していた水着は色合いも彼女の魅力を引き出しとても似合っていた。主役はこういう映し方をして欲しい。

また、バチェラーにおける家庭料理とバチェロレッテにおけるBBQという男女で求められる技術に対する不均衡さや、バチェロレッテのみにある、飛び込みやムエタイの度胸試しイベントにも疑問を感じる。特に体格差がありすぎるキックボクシングの試合は不愉快すぎて見ていられない。

さらなる違和感は、やたら友情を描きたがるところだ。2on1デートの後の仲間との別れのシーンなどはバチェラーでは丁寧に描かれない。トークSPで見る限り女性たちにも強い友情が芽生えているはずだが、その類はほとんど描かれない。これには、男性の友情は尊く、女性はギスギス牽制しあって仲が悪いという、恣意的なステレオタイプの演出意図があるように思えてならない。そういう演出はお腹いっぱいで飽きたのでもういい。

繰り返される「揉めて和解」

(C)2022 Warner Bros. International Television Production Limited
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epi04のカクテルパーティで美留町恭兵氏だけがバチェロレッテと話せていなかった件について、何故か外野が言い争っており、既に集中が切れていた私はこのやり取りが面倒くさくてしょうがなかった。「自分のことに集中して、他人のことは放っておけ」との感想しかないが、どちらかと言えば阿部大輔氏の主張に同意だ。マクファーレン氏はカクテルパーティでいつも周りをけしかけているが、おそらくこれは演出が入っているのだろうと私は思っている。内容やタイミングがいちいちおかしいし、動機がすんなり入ってこない。美留町恭兵氏は勝手に周りに同情されてしまったが、それもまた失礼な話で、自分らしさを貫くと主張した彼が一番冷静でまともだったと思う。

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前回と引き続き、鬱陶しい話し合いがダラダラと続いたストールンローズ会議でも、美留町恭兵氏は終始まともだった。略奪に成功したマクファーレン氏の帰還後に不平を述べたメンバーについて、「面白くないなら、最初から止めろ」と真っ当すぎるコメントを残し、先に帰された中道理央也氏を労っていた。彼はいつも穏やかで落ち着いおり、最後の別れまで笑顔を絶やさず、ずっと彼のままだったなと思う。

ストールンローズ周りの映像は、計算づくの声掛けタイミングやヘッドホン越しの会話がシュール過ぎたという感想しかない。茶番に心が乾ききっていた私は、マクファーレン氏の情熱にもあまり感じるものがなかった。

謎ワード「守る」

前回の放送から気になっていた謎ワード「守る」について、キビキビとツッコんでいきたい。この言葉を放った者は・・・小出翔太氏「守ってあげられるように」、阿部大輔氏「人生をかけて守っていきたい」、あとマクファーレン氏も言っていたような気がするが、今回あまり会話を聞き込んでいないので思い出せず、雑で失礼。それぞれ文脈が違うので、すんなり受け入れられるものもあれば、「ケッ」となったものもある。

私の性根が腐っている可能性も高いが、「守る」というほど冷める言葉もない。まずは定番の「いや、何から守るねん」というツッコミを入れつつ考えてみたい。

彼らに限らずバチェロレッテを「お姫様」だと表現する者は多いが、彼らは自分のことを、お姫様の横に並ぶ騎士のイメージで捉えているのだろうか。剣を振り回してカッコよく敵から守る、少年の頃に夢見たなんとかレンジャーの姿だ。悪者は剣をひと振りすればアニメのようにぶっ飛んでいく。いやいやいや、そんなことありますかいな。

本当の意味で女性を「守る」というのは、この社会そのものを「愛する人が生きやすい場所」に変えることではないだろうか。己のヒーロー願望を満たすためではなく、相手の安らぎや幸福を求める行為こそが「守る」ことだと私は思う。

もう少し具体に落とすと、例えば、愛する人の感情に気づくこと、疲れに気づくこと、痛みや悲しみに気づくことだ。プラスの感情は表に出やすいが、マイナスの感情は人にもよるが、抱えたまま表現できない場合も多い。自分だけでしっかり向き合いたい時もあるし、そんな場合には無理にこじ開けず、ただ相手の感情に気づいて同じ空間に寄り添うことでも「守る」になる。

なんとかレンジャーのように、図ったタイミングで外敵なんて来ないし、愛する者を肉体的・精神的に傷つけられてしまう瞬間には物理的に間に合わないことの方が多い。では、どうやったら守れるかというと、やはり社会全体の意識を高めて安全な場所にし、自分自身が心理的な絶対安全地帯になることだろうと思う。

接待スキルと無害キャラ

(C)2022 Warner Bros. International Television Production Limited

多くの視聴者が感じていることのひとつに、「バチェロレッテであっても女性は接待するのか」があるのではないだろうか。実業界で様々な男性とバランスよく渡り合っていくために獲得したであろう「誰をも不快にさせない」接待スキルは、見方を変えると時折痛々しく、それほどまでに風当たりが強いことを裏付けているように思う。あまりに板についた彼女の振る舞いは、もはやどれぐらい人格と結合しているのか判断できない。

若年の女性経営者というだけで苛烈なバッシングを受けていた配信前の動向からも、これらをかわすために彼女が纏った鎧が「愛想を振りまき、賢さを隠すこと」なのだろうと思う。日本で規格品でない自我のある女性は生き残りが難しく、彼女のような女性が頭角を現した場合、特にポジションを奪われると警戒した男性から攻撃されることが多い。仕事で経験したことのある女性も多いと思うが、権力を持つ彼らの嫉妬はとても陰湿で厄介だ。彼女はそれを避けるために、視聴者が警戒せずに油断する無害キャラを戦略的に演じているのかもしれない。

彼女をそんなゆるキャラに押し込めてしまったのは、すぐに炎上を誘発する未熟な視聴者の責任もあるのではないだろうか。これまでの傾向から、未だバチェラーシリーズには「大人しい規格品の女性」である以上に最適な解が存在しない。ショーをつまらなくしたのは、演者や演出だけではなく、ルールルールと騒ぎ立て、彼らの私生活まで暴き追い詰めるような、マナーのなっていない愛の無い視聴者でもある。彼女が自分自身を表現したとき、彼女を好きになる者は必ずいるが、もはやそれを信じてもらえないということなのだろう。

また、彼女の心情はどうあれ、数々の接待は、男性中心社会で生き残るために、多くの女性がときに心を削りながらやってきたことでもあり、そんな経験が本編とは関係ない部分で視聴者の痛みを刺激し、ざわつかせているのだろうと思う。私のようにキャッキャスキルが無い者は「可愛げがない」と男性に敵視されることも多かったが、逆に彼女のように朗らかでキャピキャピ度が高ければ、それはそれで勝手に軽んじられて不本意なことも多いだろうと思う。どちらの戦略を取るかは、人格や容姿などのキャラクターにも寄るし人それぞれで、どちらが正解でも崇高という話でもない。単純に私にはスキルがないだけだし、本質はそこではない。

一度全女性で前提に立ち戻ってみたい。「そもそも、なぜ私たちは男性の不機嫌を避け、接待する必要があるのか」である。それはあらゆる場面において権力が男性に偏っている不均衡があるせいだ。恋愛市場でさえも、従属をオブラートに包んだ媚びが最有力である程に、日本はミソジニストが幅を利かせる社会だからだ。このような背景を鑑みると、彼女の接待スタイルを思考力や人格と直結させてしまうのはあまりに乱暴な議論であるように思う。仲間を作れるのは、きっと彼女が温かい人間だからだと私は思う。スマートな彼女は、まず事業のために突破を目的とした戦略を立てており、観客の軽んじなどは計算のうちで孤独に飲み込んだのではないだろうか。世界を思う存分切り拓きながら、いつか彼女が多くの姉妹たちを導く姿を目撃できるといいなと思う。

広告投資の回収

おそらくバチェロレッテは、現在そんなに結婚したいと思っていないし、具体的なイメージもない。だからこそ相手に興味が持てず表面的な会話に終始しているのだろうと思う。これはリアリティショーの難しいところで、出演と欲求のタイミングが重なるなんてことは、冷静に考えればそうそうあり得ないし、それをショーとして公開することは他に何か目的がなければ合理的な選択とも言えない。彼女にはどこかバチェラー4の黄皓氏と通じるような、エンタメ性を追求するシナリオをある程度自分で持っていて、コントロール可能な人間を残しているような気配がある。それ自体は想像に過ぎないし、彼女の選択なのでどうでもいいが、彼女以上の真剣さを相手が持ってしまった場合に、どう落とし前をつけるのだろうかとの懸念はある。

心のままに振る舞う人間ほど魅力的なこともないので、ぜひ主役には伸び伸びと自己表現してほしいのだが、客観視が強すぎて責任を持つ立場である以上、やはり難しいのだろうか。好感度と引き換えに、彼女の魅力が最大限に発揮されず、人間性さえよく分からないのは本当に惜しい。そして、長期的に見た場合、配信時の好感度にこだわることは必ずしも優位であるとは言えない。放送後、同ジャンルのインフルエンサーが溢れる激戦区での牽引力を彼女はいつまで保てるだろうか。シーズンが10積み重なった時、果たして彼女のことを思い出す人間がどれ程いるだろうか。とにかく彼女は、広告投資の回収を極短期間でやると決めて出演していることは間違いない。思考の距離が私自身とあまりに遠く、正直何を考えているのかよく分からないので、とりあえずAppleウォッチをつけて心拍数だけでも見せてほしい。

全てはレンタル品

脱線ついでに男性陣についても書いておきたい。今回便宜上「神」という言葉を使うが、私はスピリチュアル系ライターではないし、あなたに壺は売らないのであまり構えず読んでもらえたらと思う。時折、人間を超越する存在の枠で捉えた方が面白い事象もあるのだ。

人生は色々なものに例えられ、様々な捉え方がある。なかでも私が時折思い返して思考実験するのは、「全ては神様からのレンタル品」という考え方だ。今、自分に与えられている家族や友人、視覚聴覚などの五感、思考力や運動能力、仕事や資産、そもそもの生命、これらは全て期間限定のレンタル品であり、いつしか契約期間を終えれば、人生の半ばか終わりには返さなければならなくなるという発想だ。

子供の頃、一度だけ視覚障害者のアートに触れたことがある。着色もされず歪な生首のような「顔」の作品群は不気味であったが、やたら大きく模されている鼻の穴など、触れてみると意外と面白かった。時折思い出して考えることがある。視覚を持たない者が人に感じる美とは何だろうかと。

例えばそれは、匂いや声であったりするのだろうか。聴覚をレンタルしなかった者が惹かれるのは、話すよりも物を言う目の表情だろうか。視覚と聴覚を同時に返却した者は、体温や息遣い、触れ方でもって相手の感情を識るのだろうか。逆に、第六感を持つような感受性豊かな者が感じる美とは、まだ誰も定義できていない外側にあるのかもしれない。分からないことや枠外の豊かさを想像するのは楽しい。

私たちは、何をいつまで借りていられるのだろうか。そんなことをふと考える。感覚をゆっくりと手放していく時、私たちは愛する者をどのように見分けるのだろうか。その目の輝きを、美しい声を、優しく触れる手と体温を、そして、その豊かな精神性を忘れずにずっと覚えていたい。その人間を定義する核として最後まで残るものは何だろうか。

今回の主役が視覚的に魅力的であることを否定はしないが、どこか釈然としないのは、男性陣から彼女に対する「唯一性」が感じられず、またそれが表現されていないからだろうと思う。仮に視覚を封じられたならば、彼らが彼女をどう見つけるのか真正面から問うてみたい。

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※画像は全て、Amazonプライム・ビデオ公式とWarner Bros. International Television Productionより拝借しています。

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