レビュー

映画「ジェニーの記憶」

https://www.youtube.com/watch?v=sL9SHtL0s7M

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【感想】★★★★☆(80点)

はじめに

この映画は、自身の記憶を成長後に捉え直すというテーマだ。ここでは、幼い頃に信じていた「愛」が「虐待」であったという事実と向き合う様子が描かれている。

扱われているのは成人男性と少女のそれだ。殴る等の直接的な暴力シーンはないが、心理的な支配をかけていくという性的な描写はある。男性であっても女性であっても、似たような経験があれば、心の奥の難しい部分を刺激されることがあるかもしれない。視聴のタイミングは気をつけてほしい。

しかし、そのような経験がある者にこそ寄り添うのがこの映画なのかもしれないとも思う。この映画自体が、監督の実体験を描いているからだ。経験の有無に関わらず学びが多いので、「記憶」について考えるきっかけとして、自分の状態に合わせて、俯瞰的に見たり、メタファーとして捉えても良いかと思う。

この映画では、性的搾取のような直接的な部分だけではなく、人生における「事実」と「真実」のような深淵なテーマが扱われている。今回は感想ではなく、私がこの映画を通して考えたことについて詳しく述べていきたい。

事実と真実

「事実」と「真実」は異なる。「事実」がたった1つなのに対して、「真実」は人生において何度もその姿を変えていく。

うまい例が思いつかないが、例えば、あなたが誰か(A)に「あなたには不可能だ」と言われ、あなたが傷ついたとする。

こんなとき、心のなかでは、「Aが私のことをバカにした」「Aによる攻撃で傷つけられた。悲しかった。」と思うことがあるかもしれない。この主観による解釈があなたにとっての「暫定的な真実」となる。別に正解も不正解もない。心と思考はあなただけのものだ。

時を経て成長したあなたは、「もしかしたら・・・あの時Aは、冷静に私の実力を判断していただけかもしれない」「心配していただけかもしれない」と思うこともあるかもしれない。これもまた、人生のある時点での、主観によるあなたの「真実」だ。

本当のところは、誰が知っているのだろうか。Aに聞けばいいのだろうか?
Aは「君を助ける人間が今いない。ちょっと待ってくれ」と思っていたのかもしれない。この場合、これがAにとっての「真実」となる。これが本当のことなのだろうか?

本当のところ・・・など、多分ない。あるのは「客観的な事実」がたった1つ、「Aがあなたに『あなたには不可能だ』と言った」ことだけだ。

このように、真実は、人によって成長によって、その姿を変えていく。何か苦しい記憶を抱えている方も、このことを知っていてほしい。学びを得た人生の後半にこの現象は頻発するようになる。何かを知覚したときには、「事実」と「感情」を切り離した上で、いずれも否定しないことが大切だ。そのステップを踏んだ上で、事象の周囲について思考していくのが良い。

この映画で描かれていたように、学ぶことで自分が過去に受けていた傷に気づいてしまうこともあれば、傷だと思っていたことが実は大切な学びであったことに気づくこともある。日常で起こるあらゆる事象は、幸も不幸も、そんなにすぐには判断できるような性質ではないことも知っていると、少しは楽に生きられるかもしれない。

難しく考えることはない。いつも自分の心にマジックワードをたったひとつ足すだけだ。「今、暫定的に、私(あなた)はこう思う」のだと。

記憶を見つめる

「事実」と「真実」、そして人生の時点における解釈について述べたが、自分の記憶をしっかりと見つめるのは、勇気と覚悟がいる。この映画でもその苦しさが描かれていた。ときに厳しい作業であるが、やはり、これは少しずつ少しずつやっていかねばなるまい。

過去を見つめられない人間がいる。痛みゆえに、その事実から目を背け続ける。これも、いじらしい人間の心の動きだ。このような場合、自分で自分を騙し続ける。完全に不毛だが、そういう時期もあろう。いつか脱することができればよいなと思う。

私自身も経験を積むにつれ、過去の解釈が変わることがよくある。特に疑問もなかった人間関係が、ある時、粗末に扱われていたことに気づき、意味や関係性まで変わってしまったこともある。「愛されていた」と思っていた記憶がその輝きを失ったこともある。こりゃちょっとしんどい。救いがあるとすれば、その逆もまたあることだ。

あなたは、誰かに心に残る恋人や友人の数を聞かれたとき、どのように答えているだろうか。私はこの数字が割とコロコロ変わる。学びを通して気づくことがあったり、「愛」の定義そのものが変わっていくためでもある。別にアホだから足し算ができないわけではない。どっちかというと引き算しちゃうのだ。心の宝石箱は頻繁に断捨離され更新されている。意外に思うかもしれないが、真実という意味で、自分自身の過去や歴史も変化する。

この感覚は加齢とともに、強くなるのではないだろうかと今は思う。生きるということは、自分の中での究極の主観による「定義」そのものを突き詰めていくような作業でもあり、学びとともに、細かな違いが分かるようになってくる。

最初から正確な定義が分かっていれば、あんな人とは付き合わなかったな・・・と思うことはぶっちゃけ多いが、これも体験してみないと分からないことで、まぁ仕方ない。きっとお互い様だろうと思う。心の中の「定義」は自分だけのもので、客観的な基準に無理に合わせるものではない。

「愛ってこういうもの。結婚ってこういうもの」なんてもっともらしく言われたところで、そのまま流用することはできない。その人の真実であるだけだからだ。あえて結婚をなんとか客観的に狭義で定義するなら、「婚姻届を提出している」という状態になるのだろう。面倒な雑音は、心象風景で白目を剥きながら聞き流していればいいい。

祈り

コロナ禍のさなかに迎える2020の年末は、各々が将来思い出す特別なものになることと思う。本意ではない場所で過ごす方も多いだろう。

浮かれたクリスマスの様子がどこか虚しく懐かしく思い出される。人に会えない今こそ過去の自分と話してみるのも悪くない。

水晶は100年かけて1mm成長する。同じところで足踏みしているようでいて、人は螺旋階段を登っていたりする。苦しかった頃に見えていたものが、未来には変わっているかもしれない。そんなささやかな希望を抱きながら、よいクリスマスを過ごしてほしい。