リアリティショー

映画「82年生まれ、キム・ジヨン」

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【感想】★★★★☆(70点)

はじめに

さて、バチェロレッテ2の放送日が近づいてきた。人間ではなく、真っ当に番組を消費し洞察を深めるために、副読本として「82年生まれ、キム・ジヨン」の視聴をオススメしてみたい。まず男女の見えている世界の違いをしっかりと認識することで、リアリティショーがより楽しめるはずだ。今回もバチェロレッテ2の脱線レビューを書く予定なので、そちらもまた読みに来ていただければ幸いだ。

本映画は、あらゆる立場の女性を描き、その抑圧を苦しみを、がんじがらめの己の存在を、もはや家族の単位ではどうしようもないという、息も詰まるような圧迫感でもって描き出す。

本編で、主人公と母親がその立場を超えて対話をするシーンがある。その痛みを理解するのは誰なのか、癒やすのは誰なのか・・・震えるほど凄いので刮目してほしい。是非自ら発見してほしいので、いつも通りネタバレはなしだ。

男性の定型文

バチェロレッテ2の放送を前に、なぜ私がこの映画を選んだかを伝えておきたい。バチェロレッテのレビューを書いた際に、いくつか男性から感想文を頂いた。ほとんどはまともなものだったが、2、3気になるものがあり、その書き出しと結びには共通点があった。私の読者の男性のほとんどはまともなので、以下の文章は不快に思うだろうが、過度に同一視せず少しの間こらえてほしい。幼稚な僕ちゃんだけを挑発してみたい。あなたじゃない。

羽虫へ告ぐ

感想文は「女性は女性なりの生きづらさがあるのかもしれませんが・・・」で始まり「男性にも生きづらさがあります」と結ばれていた。

羽虫のノイズは通常スルーするのだが、律儀な私が今回は慈悲をもって反応してあげるので感謝してほしい。ねぇ僕ちゃん、よく聞いて。

「女性は女性なりの生きづらさ」どころではなく、現実として男女差別がある。そして男女差別とは「お前は女だから馬鹿だ、や~い」といった分かりやすい小学生ムーヴではなく、社会構造に組み込まれ普段は露見しないように沈黙し維持されている。だからこそ本映画を視聴し、マジョリティであるあなたが、今までどれほど女性が主張しても見ようとも聞こうともしなかったことを確認して欲しいのだ。もしあなたが、視聴後も男女差別がないと思うなら是非論理的に反論して欲しい。それがフェアってものだろう?僕ちゃんはよく言うじゃないか、男性は女性よりも論理的だって。頑張れ。

「女性は女性なりの生きづらさがあるのかもしれませんが」といった枕詞さえつければ、女性に配慮した中立的でリベラルな立場をアピールできているつもりかもしれないが、現実に存在する差別を無いものとして扱う卑しさと愚かさを隠せてはいない。差別がないことを論理的に証明しようともせず言い切りで逃げる姿勢は、「だって僕ちゃん利権を手放したくないんだもん」と暴露しているだけなので止めておけ。

「男性にも生きづらさがある」全面的に同意だ。あるだろう。しかし言っておく。男性中心社会で、今男性を苦しめているルールは男性が作ったものだ。そしてそれは、男女差別をすることで自然発生する差別コストをあなたが押し付けられているに過ぎない。だから一緒に社会を変えよう。VSではなく、男性の生きづらさも女性の生きづらさも解決していこう。私はあなたに連帯する。

ジェンダーギャップ120位を叩き出し、もはや先進国と言えないヘルジャパンにおいて、背景を理解しないままに女性と同じく男性も苦しいと安易に相対化することがいかに暴力的で厚顔無恥な行いであるか、まず鏡を確認することをお勧めする。今冷静になったならあなたはもう羽虫ではない。真っ赤な顔をしている羽虫はどうか去ってくれ。羽虫は未来永劫私の客ではない。

差別コスト

さて、羽虫は去ったので、ここからはまともな男女に語りかけたい。有志が翻訳をしてくれているので、まずは韓国ソンアラム氏による「差別コスト」のスピーチを御覧いただきたい。きっと世界の見え方が変わる。男女ともに生きづらさの正体、本来の敵の姿が見えてくるだろう。それは家父長制社会だ。

https://twitter.com/piggyme__/status/1034772670070419456?s=20&t=BHJ9LR05IwT9RYR9Q8LM3w

if 男女の経済格差がない世界

さて、まずは男女の雇用・賃金差別がなくなり、経済格差が解消された世界線を想像してみたい。これはデート代がとか、家族を養うとか、セコい話に終始しない。おそらく恋愛市場に劇的な変化をもたらす。世はより本質的な愛に満たされる。

「女性は下方婚をしない」との指摘がよくあるが、これは至極当然なのである。女性の賃金はそもそも男性を100としたときに77でしかない。その自分よりさらに賃金が低い男性を配偶者とすることに躊躇があるのは、育児はシェアできたとしても、それ以前の妊娠出産は完全に女性のワンオペであり、収入が途切れる可能性があるからだ。安全な出産をしようと思えば現実として金がいるため選びたくとも選べない。問題なのはそれを放置している国家であり、周産期医療・子育て支援が充実していれば、現状でも男性配偶者の賃金を気にしない女性は多数存在するだろう。しかし人間を粗末に扱う日本では、一気に貧困化してしまうような相手と添うことはできない。

さて、経済格差がなくなった世界ではどうだろうか。自分で稼ぐ女性は相手の収入を気にせず、本当に好きな男性を選ぶだろう。そう、女性だって好きな相手を食わせていきたいし幸せにしたい。また、婚姻中に自分か相手に交際相手ができた場合は、互いにさっさとリリースし、前向きに次の人生を仕切り直すことも可能になるだろう。恋愛コスト・移動コストが劇的に下がり、良くも悪くも社会はかなり様変わりし、失敗ややり直しが当然の世界観になるのではないだろうか。一度目の選択でホームランを打とうなんて、そもそもが無理ゲーなのである。

事実婚

一方、経済格差がなくなったとしても男尊女卑の文化がにわかに一掃されるわけではない。そんな状況下で、経済力を得た女性が多少の不利益に目をつぶり選択するのはおそらく事実婚だ。家父長制のもとで、名を奪われるのを阻止するために、嫁という兵役から逃れるために、あるいは配偶者から離れやすく安全を確保するために女性は事実婚を選択し始める。そして、ミソジニーを内包した不誠実な男性は今以上に忌避され排除されることは覚悟しておかなければならないだろう。まともな男性は変わらずモッテモテだから心配しなくていい。

現在日本では夫婦別姓を実現するどころか、国家に従わないなら事実婚で不利益を甘受しろと言わんばかりだが、この放置がどうなるかを考えてみたい。

事実婚で子供が生まれた場合、子は母を筆頭者とした戸籍に入り、母親の単独親権となる。別の戸籍にいる父は子を認知した旨を記載してもらうことで初めて親子関係が成立するが、共同親権にはならず立場は弱い。つまり父親が認知した場合に初めて扶養義務と相続は発生するものの、依然として親権がない。果たして、これは父親にとってどのような結果をもたらすだろうか。

内縁の解消を離婚と表現してよいのか分からないが、その場合、親権のない内縁の父親は子に関する全てを失いかねない。男性がしっかり家庭を築こうと考えたとき、内縁に甘んじることはあまりよい結果をもたらさないことは抑えておきたい。やはり選択的夫婦別姓による正式な婚姻の実現を避けては通れないだろう。

男性のポチ化

この映画で妻を無邪気に愛してきただけの夫は、妻の変化に終始困惑し役に立たない。言い出したはずの育休はいつの間にか有耶無耶になり、腹の立つ同僚にはコーヒーをぶっかけるくらいしかできない。ポチはとても優しいが悲しくらい世界に従順で言葉を持たず、妻の救いにならない。そんな彼からはホモソーシャルの窮屈さと、その犠牲者としての苦悩を感じる。

必要な文脈なので、少しルッキズムの話を入れる。不快だろうが許してほしい。本映画もそうだが、フィクションで既存の概念をぶち壊すような苦言を呈する人物として登場するのは圧倒的に熟年女性が多い。そして、たいていは小うるさく美しくもないおばさんとして描かれる。これは悪意を含んだ表現だろうと思う。男性に逆らう者=ブスの図式が社会のあちこちに記号化されている。愛される存在でありたい女性がこの踏み絵を避けるよう巧妙に誘導されている。

この悪意の表現は過ぎたものだが一応正当性もある。正論をぶちかますのはマイノリティであることが多いため、女性に台詞を言わせるというのはリアリティがあると言えばある。しかしそろそろ、男性にこれらの台詞を言わせるフィクション、現実が私は見たい。

しかしマジョリティである男性は、それはそれは隷属を叩き込まれた憐れな存在でもあり、個としての意識を奪われ続け安易に発言できない背景もある。よく問題になる理不尽部活は圧倒的に男子体育会系が多く、女性からすると日常的に暴力がある部活など想像できない。男性たちは、こういう世界にずっと耐えてきたのだなと思う。ずっと我慢してきたんだなと思う。しんどかっただろうなと思う。それを無抵抗でやり過ごす必要があったかは別として。

男性と女性を比べてみたとき、組織や既存の体制に忠誠を誓うのは圧倒的に男性だ。これはシンプルに男性中心社会において、女性は恩恵を受けられず権力に縛られないため、あっさりと組織の意図を無視することがあるからだろうと思う。ポッと出の半沢直樹やヒヤマケンタロウが脚光を浴びてしまうような、日本男性のポチ化は相当深刻だ。彼らは総ポチ化したホモソーシャルにおいて、とても珍しく眩しい存在だからこそ耳目を集める。しかし、男性が支配するこの国で、男性自体が己の鎖に気づきそれを破らないことには社会は変えられず、男性の生きづらさも解消されない。まずは男性の個の回復が急務だ。恐れず理不尽に抗え。

さて、バチェロレッテ

そろそろ記事も長くなってきたので、このあたりで急旋回し強引にバチェロレッテの話題へ繋げたい。今回のバチェロレッテは企業経営者だ。資本規模は必ずしも優秀さの証明ではないが、彼女の社会的地位に多くの者はビビってしまうのではないだろうか。ぶっちゃけ有能な女性は自己肯定感の低い男性にはモテない。彼女が旅のなかで優秀さを隠してしまう瞬間がないか、男性が怯む瞬間がないか、もしあればなぜなのか・・・そんなところに注目している。

男女ともに、相手が社会的地位を持つ場合引け目を感じてしまうことは多いが、それはひとつの尺度に過ぎず、決して人間の本質ではない。「それがどうした」と呪文をひとつ唱えてまず落ち着きたい。あなたの個としての存在は全く引けを取らない。少なくとも私の目に両者は同じように眩しい。

バチェロレッテの人間的な素晴らしさを見つけ、男性陣の個性を発見し讃えよう。前回、私達はバラエティ豊かな出演者を見るのがとても楽しかった。なかには発露の条件が複雑でシャイな個性、万人受けしない個性もあるだろうが、視聴者全員が意識して目を凝らせばきっと何かが見えてくるはずだ。今度こそ、私たちは人間を消費せずに真っ当に番組を消費しようではないか。