レビュー

映画「Fukushima50」

【感想】★☆☆☆☆(10点)

はじめに

本作品は2011.3.11に起きた東日本大震災を題材に作成された映画だ。昨年公開され、震災から10年という節目の年に地上波放送となった。言うまでもないが、原作者はかなり偏った発言をするネトウヨであり、五輪との関連も深く複雑な背景を辿る作品である。

本映画については、取り立ててあまり感想もないのだが、「Fukushima50」を観るならば、他に観てほしい映画があるので紹介したい。

作品の公開当初、私はコロナのことが気がかりで映画館へ行くことはなかった。今回、地上波で視聴できたのはよい機会だった。この映画に1円も払いたくない

本映画はフィクションという逃げ道を作ったうえで、史実とは異なる描写がある。その細かい部分は多くの方が指摘しているので、ここでは割愛する。あまり本質ではない。

私がことさら不気味に感じたのは、近年まれに見るお金のかかった映画だったことだ。政府の肝いりプロパガンダだからだろう。俳優陣がまず凄い。チョイ役まで全てを主役級の役者が占めている。ここまで役者にお金をかけている邦画を私は久しぶりに観た。あらかじめスケジュールされていたとは思うが、政権の支持率が落ちている今、地上波で放送されたことには意図を感じる。そして、本映画が自民党政権下で文化庁文化芸術振興費補助金を得ていることも忘れてはならない。

美談でいいのか

現場の作業員が必死に取り組んだことは本当に尊く言葉もないが、これで美談にしてしまっていいのか。「頑張ってくれたんだ。ヒーローだ」本当にそんな単純な結末で感動していていいのか。現場の作業員は、原子力を推進して権益を得ている階級でもないのに使い捨てにされているじゃないか。尊い自己犠牲と職責を果たしたことを讃えたい気持ちは分かるが、これは英雄譚で閉じていい物語ではない。そういう言説で東電の犠牲になった現場の作業員を黙らせてはいけない。そして、戦犯の一人である所長を祀り上げることもあってはならない。本当のFukushima50の嘆きを、記事の最後に貼っておくので是非確認してみてほしい。

私は常々思っているが、死んだからって「いい人だった扱い」するのは思考停止が過ぎないか。英雄として描かれている所長自身が、津波対策を封じるために圧力をかけていた事実がある。必要な批判をしなければ、私達は過去から学ぶことができない。これを単純に「死人に鞭打つ」と考えるのはアホだ。彼は多くの者を巻き込んで、自分の尻を拭こうとしただけだ。当たり前のことを普通に言いたい。危険性を知る機会があったなら最大限の防御をしておけよ。扱っているのは核なんだから。津波対策に対する東電の経緯については、記事の最後にリンクを貼っておくので、こちらも是非とも確認してみてほしい。内側から怒りがこみ上げるだろうと思う。

私はかつてSEであった。畑違いではあるが、このような技術職は、あらゆることを想定して先手を打つ。「何も起こらないこと=善」なのだ。そんな夜警的な仕事は評価されることも少ないが、一旦事が起こると面倒な事態になるとわかっているので、例外処理はかなり細かく想定し設計する。それだけ気をつけていてもエラーが出るのが現実だ。

原発行政に、果たしてそれがなされていただろうか。警告レポートをもとに、高度な津波対策をしている電力会社はちゃんとある。コストを嫌がるという近視眼的な経営方針で対応をしなかったのは、愚鈍で怠慢以外の何者でもない。これは起こるべくして起こった事故だ。第三の原爆は私達が全員で落とした。

この映画は本当に罪深いと思う。確かにあのとき英雄的な活躍をした人間はいただろう。しかし本質はそこではない。この映画で「福島のことは終わった」と感じる人間が出てきてしまうからだ。コロナがなければ、復興五輪と英雄映画のあわせ技で、日本人のお祭り騒ぎはかなりのものになっていただろうと思う。

考えてみたことがあるだろうか。なぜここまでお金をかけて「福島のことは終わった」をやりたいのか。日本における最大権益が電気事業だからだ。彼らは原発を再稼働させたくてたまらない。売りたくてたまらない。アホだから、福島の事故を堺に世界中で再生エネルギーに風向きが一気に変わったことを理解していない。いつまでも認めたくない。

2013.9月から約2年間、私達は全ての原発を停止できた。また、いくつかの大企業が自前の電力を整備したという状況の変化もある。それにも関わらず、昨今巨大化する台風被害を無視したままに再稼働へ突き進む姿勢にはとてつもない不安を感じる。日本が原発に固執している間に世界では技術革新が続き、もはや追いつけなくなっている。真面目に再生エネルギーに取り組んでいれば、かつての日本なら多くの技術特許を取れただろうに、その意味でも終わっている。

ついでに、原子力をはじめ電気行政をハンドルするのは、あのGOTO事業を思いついたお祭り経産省だということも改めて確認しておきたい。

他の映画との比較

映画「太陽の蓋(2016)」

太陽の蓋(2016)」という映画をご存知だろうか。同じく3.11をテーマにしているが、「Fukushima50」とは描き方が異なる。どこまでも淡々と綴られる恐怖だ。そして、なぜこの映画のタイトルを耳にすることが少ないのか、その意味を考えてみてほしい。

ここでは、内包されるイデオロギーではなく、映画そのものとして比較してみたい。「太陽の蓋」は非常に地味だ。役者がまず揃っていない。北村有起哉が一人で引っ張る映画だ。私は彼のファンだが、彼の出演がなかったら視聴していないかもしれない。

放射能は目に見えない。血が出る訳でもない恐怖をどのように描くかというのが重要だが、全て記者役である北村有起哉の表情で描ききっていた。一方、「Fukushima50」は豪華キャスティングにより、画面を盛ったような気がする。とにかく全員が目立ちすぎてわちゃわちゃしている。個人的には放射能の恐ろしさを感じたのは「太陽の蓋」の方だ。

「Fukushima50」は渡辺謙が怒鳴っている印象だけで終わってしまった。地上波でCMをはさみながら観たせいか、とても長く、印象的な見せ場もなかった。これは私が「一丸となって」的なものが苦手なこともあるだろうと思う。「行けると思った者は前に出てほしい」とのセリフは特攻隊そのもので、この作家・脚本家は未だそのような戦中の美学に酔えるのかと失笑した。ひねくれているのかもしれないが、私には全てが空々しかった。

見せ場という意味では「太陽の蓋」の演出もなにか説明的で泥臭く、洗練されたものがなかった。こちらは役者陣からも、スタッフを揃えられなかったのだろうと感じる。出演者の多くは舞台の役者なのか、映像にどこかなじまない。

「太陽の蓋」の視聴をすすめるとかと言われれば、エンタテインメントとしては不足があり、史実を知っているのなら特に必要はないかもしれない。

映画「東京原発(2004)」

次に、原発まわりの仕組みがとてもわかり易い「東京原発(2004)」だ。エンタテインメントとして完成しているので、是非視聴をおすすめしたい。役所広司が演じる都知事が東京に原発を誘致しようと画策するドタバタ劇だ。器用な役者が揃っているのに加えて、内容もとても面白い。

私はこのような映画がもっと増えればいいのになとよく思う。サシャ・バロン・コーエンの「ボラット」シリーズもそうだが、風刺で笑いにすることで視聴の裾野が広がるし、固い記事よりマスに伝わりやすい。

このようなテーマで笑うのは不謹慎だという、一種の思考停止とも言える「避け」が日本にはあるような気がするが、どうせ観終わった後は笑っていられないから大丈夫だ。学びは楽しい方がいいに決まっている。

ドキュメンタリー映画

続いて、福島の事故を中心に、原発にまつわる全てを学ぶことができるドキュメンタリー映画を紹介したい。原子力ムラのお金の流れや再生エネルギーなどについて包括的な理解が進む。事故の流れの確認にもちょうどいいのではないかと思う。現在、Youtubeにて全編無料公開中であるので、この機会に是非視聴してみてほしい。

映画「日本と原発 4年後」

発電行政を市民が取り戻すことが、民主主義を取り戻すことに繋がる。金の流れも面白い。

映画「日本と再生 光と風のギガワット作戦」

世界各国のエネルギー事情について幅広く学べる映画。自前の電力を持つことが安全につながる。

昭和~平成初期の作品について

映画の話ではなく、コミックや小説の話をついでにしてみたい。昭和生まれの私は、かつての作品に原発批判がしっかりあったことを覚えている。どなたかは忘れてしまったが、かなり高名な女性漫画家のあとがきに、一部の電力会社を潤わせるために原発という怪物を解き放ったと猛烈な批判があった。たしかその作中でも怪物について触れられていたので、婉曲的に原発をテーマにした作品だったのかもしれない。もう一度確認したいがどうにも思い出せない。このような記述は、現在日本ではもう考えられないのではないだろうか。

また、別の小説では、未来の日本は世界中からの核廃棄物の産廃場になるという設定があった。地震のない国で開発された原発を、そのまま地震大国で大量に作る。また、竜巻対策として低い位置に電源を置くスタイルをそのまま海沿いの福島に採用して水没させたようなアホな日本なら、早々に滅びた後は島ごとゴミ捨て場として有効利用されるという発想は分からなくもないと今は思う。

若い方には特に知っていてほしい。表現の自由はかなりの部分をもはや失っている。「禁止」と明文化されていなければ、自由は担保されていると思うかもしれないが、それは楽観が過ぎる。自由の制限には法律化など必要としない。圧力がかかる、またその可能性があることだけで、萎縮させることができる。日本で表現の自由と言えば、毎度毎度エロの話ばっかり出てくるが、いい加減、まともな危機感をもったほうがいいだろう。

福島について

東日本大震災について、個人的には少し後ろ暗いところがある。震災があった当時、私は関西で地方公務員をしていた。上司に呼び止められテレビを見ると、そこには津波の様子が映し出されており、共に呆然としたのを覚えている。その日はもう仕事にならなかった。

この映像を堺に、私は震災の情報を自らは積極的に収集しなくなった。嫌でも情報は入ってくるのだが、映像についてはかなり避けた。先日、友人と震災について話す機会があったが、10年目でやっと当時の映像がしっかり見られるようになったと同じことを言っていた。遅ればせながら、時を経たことで当時の緊迫した状況をやっと受け止められるようになった。10年前、私は思考停止したのだ。当事者の方に申し訳なく思う。

私は阪神淡路大震災を経験している。被害は家の外壁にヒビが入る程度のもので、特に避難生活をしたわけでもないが、当日のことはよく覚えている。

1995年は特別な年だった。オウム関連で世間が騒がしく、その上未曾有の震災だ。その年は受験を控えていたこともあり不規則な生活だったせいか、地震があった早朝にはたまたま起きていた。物凄い音と揺れが続き、戦争が始まったかと思った。2階から道路を見ると、上下に脈打っていたのを覚えている。ひたすらに強い揺れが恐ろしく布団に丸まって凌いだ。

身体的な感覚は既に消えてしまったし、別にこの経験がトラウマ化しているわけではない。正直に言えば、私は自分の体験をもとに被害を鮮明に想像したくなかったし、個々の悲劇や福島の現実を「見たくない」という思いがとても強かった。

とりわけ地方公務員であったため、このような時に逃げることもできず、家族ではなく市民のために動くということがどういうことかと、かなり深く考えた。自分にあれができるのか。日々の通常業務については誠実に向き合っていたが、私の本質は冷たい人間であり、住んでいるわけでもなく勤めているだけの自治体や住民について特別な思い入れもなかった。また、薄給で激務に追われる中途採用の身分では、そのような大きな自己犠牲を払うに値しないという自分勝手な思いもあった。結構なクズだ。

当時、数名の職員が福島へ応援に向かった。選出されたのは時間的に余裕のあるタフな男性ばかりだったが、その時にホッとしてしまった自分を今もまだ鮮明に覚えている。早めに職を辞するべきだと思ったし、実際そうした。

原発の事故について当時誰とも話さなかったが、目をそらしたという事実はやはり追いかけてくるものだなとこの頃よく思う。オリンピックがコロナで頓挫し、すでに復興五輪の言葉さえも消えた今、福島の嘆きがやたら届き、胸に響く。福島の方は「忘れないでくれ」と言うが、私はそれ以前に、避けていた被災者の感情の記憶をしっかりと入れるところから始めなければならず本当に情けない。

考えているとしんどくなってきたので、最後にアホな例えを書いてみたい。私は少しミニマリスト的な思考がある。つまり「これを買うとどうなるのか。引っ越しするときは持っていけるのか」といつも考える。加えてズボラなので、不燃物や大型の商品を購入するときは、かなり考える。いわゆる出口戦略だ。紙や布製なら廃棄しやすいが、金属や陶器は曜日が指定されていたりめんどくさい。とにかく、物はいつか手放す前提で買う。

原発に置き換えて考えてみたとき、核のゴミ問題を含む、新設~廃炉までが1つのサイクルだが、長期のそれが設計されているようには到底思えない。フィンランドは2022年から、地下450メートルの岩盤に核廃棄物を100年かけて埋めた後に封鎖し、安全になるまで10万年の隔離を行う予定らしい。いまだかつてそのような長期間存在できた建造物は世になく、壮大な計画には気が遠くなりそうだが、原発とはそういうものなのだと改めて思う。地震大国には土台無理な話だが、それを差し引いても、誰も本気で考えていなさそうなのが、とてつもなく日本的だ。

原発について即時的な解決方法はないが、福島の廃炉計画がすでに遅延しており、30年~40年かけても無理そうだという現実は知っておきたい。何度も言うが、総括はGOTO事業の経産省だ。そして、世界ではエネルギー革命が起こっている。是非、参考動画を視聴してみてほしい。

世界のエネルギー事情について分かりやすくデータで解説。

東電の体質について、裁判とともに正確に経緯を辿っており、一気におさらいできる。怒りに震える。

本当のFukushima50の扱い。元作業員による告発を聞いてほしい。