レビュー

映画「花束みたいな恋をした」

【感想】★★★☆☆(60点)

はじめに

昨年話題になっていた映画をようやく観終え、少し感じたこともあったので残しておきたい。導入部がどうにもダルく2回挫折した後、3回目で完走できた。ちなみにダルかったのは映画の作りそのものではなく、登場人物のあまりの魅力のなさによるもので、物語として必然であるその演出自体は至極真っ当なものではある。本作品は、コーヒーを始めとする小物の動きで状況を語る場面が多いので、そこに注目して視聴すると面白いと思う。

タイトルから連想されるのは共感性羞恥を刺激されそうな砂糖菓子だが、物語の本質はそこではない。「自意識」や「感受性」こそが大きなテーマであると私は受け取った。恋愛映画だと食指が動かない方にも大丈夫だろうと思う。甘いようで全く甘くないのだ。

今回は珍しくネタバレありで書いていきたい。読後でも面白く視聴できる作品だが、前提を共有しておきたいので、未視聴の方はあらすじを読んできてほしい。これは視聴後にあーだこーだ言うのが楽しい作品で、醍醐味はそこだ。

目滑りする二人

主役である二人の演技をまともに見たのは初めてかもしれない。有村架純の演技は役柄のせいか突き抜け感はないが、アニメーターが動画に起こすような正確さと器用さで、作品として描きたいものを忠実に表現しており、俳優として信頼されているのを感じる。とても魅力的な二人が、あれほどの普通さを纏えるとは、役者とは本当に凄い。

目滑りしたのは二人ではなく、物語中の麦(菅田将暉)と絹(有村架純)の存在だ。「サブカル的趣味が合う二人」ということで、何かしら個性的な人物像を想像していたため拍子抜けというか、リアルで会ったら小物すぎてスルーしてしまう佇まいにちょっと驚いた。なんというか、臭いがない。

ストリートビューに写り込んだことで大はしゃぎする麦。自前であろう前掛けを持参してブログ用にラーメンを食べ歩きする絹とひたすらに痛い描写が続く。ちなみに前掛けそのものが痛いのではない。後述する。

同じく、何かしらアート的なことをやっている様子の麦の先輩たちにも俗物感しかない。それ自体は問題ないが、全く気概がないので、何らかのプロを目指しているという後の描写に驚く。そして、お揃いのタトゥーもそうだが、お揃いで黒の帽子を被ってしまうところに「およよ」と思った。揃いで安心する人間が「個性」を発揮できるのかという痛烈な皮肉がこのシーンには分かりやすく現れている。

麦と絹の出会いはサブカル的キーワードの応酬で始まる。それはまるで、海外で思いがけず日本人に出会いテンションが上がるのに似ている。彼らは知識のカードを出し合い、気が合うということになり、幾ばくかの承認欲求が満たされてしまい、とにかく出会う。

そこそこマニアックなキーワードを交わしているらしい彼らの様子は、素直にサブカルに詳しい二人と読み解く人も多そうだが、個人的には薄っぺらい知識のカードを切り合いながら、己の価値を高めようと背伸びする浅慮な若者という印象を受けた。恐らく演出意図もそうだろうと思う。何しろ単語しか出てこない。どこを面白いと感じているのか話さないし、興味と興味の連鎖が出てこない。ぶつ切りされたそれぞれを、本当に心から好きなのかも疑わしい。

象徴的なのは、麦がハマっていたというガスタンクのくだりだ。珍しい趣味であろうガスタンクの写真を次々見せ、自主制作した映画を麦の家で観るという話になりながら、その趣味を持っていないはずの絹は「なぜガスタンクに魅力を感じるの?」という質問はしない。いや、気になるだろそこ。むしろ気になってないなら、なぜ「映画見たい見たい!」になるのか第三者的には不思議だが、ガスタンク最高!が当然であるかのような二人のシンクロ率なのだ。オモロ。

しかしこれは、それまでのやり取りで、相手の承認をしているようで自分自身の承認を同時にしている二人が、甘美な承認を手放したくないがために、相手を否定しづらい窮屈なフェーズに早々に突入しており、「ガスタンクの魅力が理解できない感度の低い私」を看破されたくないために質問を封じているのだろうと私は読み取った。同じ感覚で揺れていたいから同時に一緒に漫画を読む。漫画好きには考えられない感覚だ。漫画を読むときって、頭の中でアニメのように好きな声をあててみたり、動画にしてみたり、別アングルを想像してみたりするもんじゃないんだろうか。

彼らは自分だけの感受性で感じきった上で会話するということはしない。「見たよ、読んだよ、良かったよ」しか言わない。没入感のない消費方法から、彼らが本当にはそれを好きではないことが伝わってくる。会話に追従する仕草があったりと、なんというか、ライブチケットを腐らせてまで焼き肉男について行ってみたり、モテない絹ってただきっと恋をしたかったんだな。

この一連の流れからは、「マニアックな趣味を持つ僕」と「マニアックさを前のめりで楽しめる私」を互いに自己演出しているのが透けて見える。つまり、劇中で彼らは、どこまでも非凡でありたい凡庸として描かれている。「花束」の意味がまとめ売りされる雑多な花の寄せ集めという意味なら、痛烈な皮肉だ。知らんけど。

社会性・協調性は才能の敵

上記のように演出意図を読み解いた理由は、就職とイラストレーターという夢の狭間で揺れる麦に対して先輩が放った「社会性・協調性は才能の敵」という言葉だ。

これらの単語は同時に出てくることが多いが、正しく並べ替えると「才能は、ときに社会性・協調性と折り合いが悪い」となる。以前、他の記事で「個性」について触れたことがあるが、因果が全く逆なのだ。非凡であるということは、止めようとしても止められないから非凡なのだ。

何やら感度が高いと自認していそうな麦と仲間たちだが、やや雑に見ていた私にはロングヘア以外ほぼ見分けがつかない。なんか黒かった。これはマジで私がアホなだけという可能性も高いが、多分演出だろうと思う。観客が顔を覚えられないレベルの有象無象として映しているような気がする。彼らは都度集まって互いの感度を確認しているようで、よくある青春の檻とでも言うのか、実際は誰かが突出しないように見張り合っているような関係にも見える。しかし、突出してしまう人間はそもそも群れない。数年後もうだつの上がらない先輩は、彼女を銀座で働かせながら己の腕よりも人脈を自慢しつつ、海月をキレイに撮影するという一見アート風味な活動を続け、完全なモラトリアムとして描かれている。

「街中で同じ趣味(あえて感性とは言わない)を持つ者と偶然出会える」これこそが凡庸さの証明であるが、彼らはこれを凡庸ゆえの福音ではなく、運命と解釈し、とにかく二人は出会う。

もう少し皮肉なことを言うと、彼らがこれほどの偶然を叩き出したのは、それこそWikipediaではないが、その界隈の王道テキストを読み込んでいるから、同じ道を辿っているだけだ。自分の感受性を道標に興味を追求した場合、果たしてこのような「運命的な偶然」は起こり得るのだろうか。

別れのシーンで描かれる、かつての二人と同じような軌跡をたどる若いカップルも同じだ。回想の仕掛けとだけ読み取っている方が多いように思うが、奇跡が立て続けに起こることで「実はありふれた恋の始まり」を表現している。一気に興奮がクライマックスまで上り詰めてしまうほど趣味が合う相手を発見し、自分に起こったことが特別であると信じたい。そんな恋への期待感が見て取れるが、彼らが交わしているのはキーワードだけで、それらの作品のどこを面白いと感じたかの会話はない。単なる属性報告会でしかない。自称感度が高いはずの彼らが、どの作品も丸ごと愛するとか、そんな雑なことってあるんだろうか。好きな作品が同じだと、本当に感性が同じなのだろうか?つまり、2組のカップルはどこまでも解像度が低く、そもそも感受性の擦り合わせは一切していない。オモロ。

凡庸コンプレックス

「物知りなんやね」という感想しか出てこないような二人だが、別に悪いわけでもない。彼らには年齢相応の瑞々しい感性もちゃんとあり、主に絹の視座としてそれは描かれている。麦が絹の靴を当然のように一緒に靴箱に収めるのを見つめる絹。電車で「揺られる」という表現に気づく絹。麦の変化を見つめる絹。二人は別に尖った人間でなくとも、虚栄心だけではなく、柔らかい感受性を持つ素敵な若者だ。

よくわからんが、世の中には凡庸コンプレックスというのか、非凡でなければつまらないと思っている節があるが、そんなはずはない。非凡は優秀という訳ではないし、時代が追いつかず不遇のままとなる非凡の方が多い。凡庸さは足に優しい靴を履いているようなもので、多くの者が通る凡庸な人生は地ならしがしてあり躓くことも少ない。

そして、凡庸であったとしても非凡になる方法はある。それは、「ある特定の人物に対して、置き換え不可能なスペシャルな存在になること」である。全世界に対して非凡というような不遜なものではなく、「私を逃すと私のような人間とは二度と出会えない」と二人の関係性の上で思わせることである。麦と絹はまさに、そのような関係において互いの特別さを認知するに至る。彼らは互いの前でのみ非凡でいられる。非凡な趣味で偽装することがなんと虚しい営みであることか。

麦と絹のような出会い

多くの者が映画を観ながら考えたのは、自分の過去の恋愛ではないだろうか。

私は趣味や好みが全会一致!という出会いは経験がないが、あまり現実味がなく特段憧れもない。人は移ろっていくものなので、初期セットがどのようなものかは私にとってはどうでもいい。彼らの出会いはラッキーで導入としてはそんなもんかとしか思わない。好きな人の「好き」は世界が広がるきっかけになるので、異なる趣味はウェルカムだ。私はむしろ解像度のズレの方により敏感で、アンテナの弱い者が苦手だ。関心の向きはどうでもいい。出会いで趣味や興味を寄せてくる者がたまにいるが、あれは悪手だと思う。「で、お前はどういう人間なんだ?」という問に答えていないし、つまらない。自分の好きなものを精一杯プレゼンして、好奇心を刺激してみればいいのにと思う。「面白そう」という手を人は掴みやすい。

二人のやり取りを見ていて羨ましかったのは、性的魅力が後付の、実に人間的な気楽な出会いを果たしているところだ。実は私はこのような出会いから恋をしたことがなく、友人枠が恋人枠になることもないタイプなので、自分を開放できる人間が恋人であるというのはとても眩しく、コンプレックスといえばコンプレックスなのかもしれない。

私は異性愛者だが、恋人との始まりはいつも男性と女性としてだ。これは即日夜をという話ではなく、内向性が強い私自身はズボラかつビビリなので攻撃力がそもそも弱く、相手が緊張感やギラつきを持って恋愛感情未満の好奇心を隠さずに近づいてくることが恋のきっかけとなる。「怖い怖い」と思いながらも、魅惑的な緊張をもたらす相手には、なんとかニッコリ笑うという座敷わらしムーヴで受ける。つまり、友人として出会ってフラットに話せて~みたいな話がファンタジーに思えるほど、最初から男女の緊張感がある。リラックスして自分を表現する前から、相手にはとっくに求める虚像があって、相手の熱が高まるほどにその範疇を出ないように自分でも抑制をかけてしまうという、相手の熱量頼みのアホみたいな恋愛をよくした。人間関係全般について、やる気元気根気がないポンコツなのでしょうがない。

情動の連続性

人はある程度、初見の嗅覚で恋愛対象・対象外を分類してしまうものだと思うが、思慕や友愛、恋愛感情、性欲、そして結婚、妊娠・出産がうまく連続している人はいいなぁとよく思う。私はここの繋がりがやや複雑で分断されている。自分自身の定義上は、愛情と恋愛感情が明確に区別されており、恋愛感情はイコール性欲起因であり、収める心の場所も異なる。

例えば、私は「好き」と「一緒にいたい」があまり並び立たない。「好き」とは「生涯に渡って1年に1回くらいのペースで、何を感じてどう生きたか確認しあいたい」というような思いが並び立つ。勝手に過ごして、私とは違う経験を積んだ上で、それをシェアしてほしい。

「恋人」だから「一緒に暮らす」というところにも、私は連続性がない。一緒には生活したくない。「恋愛」から「結婚」も連続性がない。「結婚」から「妊娠・出産」も、「妊娠」と「育児」も連続性がない。

これらの単語は同じカテゴリに入れられがちで、連続した物語が多いため「自然」と思っている方も多そうだが、本当に矛盾なく連続しているかは個々人で異なる。特に「恋愛感情」と「性的関係」、「結婚」と「妊娠・出産」は男女とも分解して考えることが少ない。これはある種、とても傲慢で暴力的な思い込みであるという可能性は知っていてもいいかもしれない。自分が当然とする連続性について、相手もそう思っているかは聞かなければ絶対に分からない。

変わっていく関係

1000円イラスト

この映画は特に後半が面白い。中でも麦の柔らかかった部分がパサパサに乾いていく様はホラーだ。3カットたった千円というイラストの仕事を提示され、麦は渋い顔をしながらも「了解しました!」と受けてしまう。ツテを失いたくないというのも分かるが、この時点で彼はもう自分自身の情熱や未来を信じていない。

好きでも別れを告げなければならないときはあるし、必要なものでも拒否しなければならないときはある。それが矜持であり、自分の感受性を守ることでもある。幸せとはまた別の軸だが、非凡なものは非凡ゆえに妥協することができない。それを失えば、自分のコアな部分に取り返しのつかない変貌が訪れると本能的に分かっている。麦くんはモラトリアムからの卒業を選択し、一気に新自由主義者のような勝ち組思想に巻き込まれていく。今度は社会人としてわきまえた「物事を俯瞰した大人」に擬態することに意義を求めていく。選択が正しかったと証明するために結婚を迫ったりと、忙しそうな麦であった。

しかし、イラストで成功するかどうかはさておき、柔らかい感受性を持ち続けることと企業で働くことは、それほど矛盾し分断されているようなものなのだろうか。自分の感受性から逃れることができず振り回されているような私からすると、感受性を放棄するという描写そのものが新鮮な驚きであり、「そんなことできる人いるんだ」と思った。大人になるにつれて「現実を見る」事象は知ってはいるが、心は保ったままで、様々な事象に対応しこなれていくだけだと思っていた。皆、そんなにコアな部分が変質しているんだろうか。私では想像できないので、一体どういうことが起こっているのか経験者に聞いてみたい。経験者はすでに言葉を失っているかもしれないけれど。

さて、社畜として順調なスタートを切った麦は、上司との誘いと天秤にかけた絹との約束について「チケット取ってるんでしょ(行くよ)」と言い放つ。もう「自分が行きたいから行く」とも言わないし、絹の興味があるものに関心を寄せるということもない。

社畜はよく机でイラスト以外の何かをしている。ゲームの音量を下げて気を遣っていた絹に「大きい音でやっていいよ」と恩着せがましく承認を与える。ホモソーシャルに取り込まれた雄の振る舞いが板についてきた。「電車に揺られた」と表現する麦くんは消え、死んだ目でパズドラをする。それにしても、顔が引き攣る表情といい菅田将暉の演技は凄い。

怪しい絹とラーメン

二人の関係性の変化は、主に麦の乾きと絹の変わらなさによって対照的に描かれているが、本当に絹って変わらなかったんだろうか。絹って最初っから「無かった」んじゃないだろうか。「無い」ものは変われない。

本やゲームはそれなりにずっと好きそうだが、ブログを書くほどラーメンが好きだったはずの絹は、カップラーメンを食べる麦に何も反応しないし、麦と一緒にラーメン屋に行くこともない。映画2時間の枠には限りがあるため描写を省いていると思うかもしれないが、違う。「ない」から「ない」のだ。

そもそも多分絹はラーメンなんぞ好きではない。それは加持(オダギリジョー)とのシーンで分かる。加持と絹が出会うシーン、これは初めての出会いではない、何かしら後ろめたい再会のシーンだ。加持は最初から絹を見つけている。

絹は簿記2級をほっぽり出して加持が経営するイベント会社の派遣社員になる。これは好きなことをやりたいというだけではなく、加持の存在も大きな理由だろうと思う。打ち上げ後に酔いつぶれた絹は加持の膝枕で寝た後、加持の「ラーメンでも食べに行く?」という誘いに微妙な表情をする。決定的なことは何も映っていないが、絹のかつてのラーメン食べ歩きは、過去に味見されてしまった加持の影響によるものだろう。短い映像で同じキーワードを使う場合は、基本的に意味がある。その証拠に、絹はカップラーメンを許容し、再会に淡い期待を寄せながら食べ歩く絹は、麦とは絶対にラーメン屋には行かない。きっと自前の前掛けは、「ちょっと違う自分」の演出と、加持に発見されやすくなるのを期待した小道具だったんじゃないかと思う。絹のこの気合いの入り方が痛い。二人は趣味があるようで、あまり「こだわり」や「自分自身のスタイル」というものがない。最初っから「無かった」。これはイヤホンLRのくだりで、他者から影響を受けやすく模倣してしまうという軸のなさでうまく表現されている。

この映画を「変わっていく麦」と「純粋なままの絹ちゃん」の文脈で観たい層には皮肉になってしまうが、絹のこの浮気を見抜けないなら修行が足りない。

二人が出会う前、麦は茶髪ロン毛姫に憧れていた。絹は加持とラーメンを食っていた。二人は互いの何に惹かれたんだろう。それは甘美な承認の増幅と、モラトリアムの揺りかごではなかったか。ありふれた、ありふれた妥協と出会いだから、きっと観客は色んな部分に反応するのだろうと思う。

別れ

なんと言っても、最大の見せ場はファミレスでの別れのシーンだ。かつての自分達と同じやり取りをしているカップルを見つけ、あらゆる想いが溢れる。

菅田将暉が涙するシーンが良かった。目にしみるような、痛くて熱い涙が表現されていて、本当に演技が上手い。この映画で一番心に残った。

二人が失ったものはなんだろう。私は、恋の終わりそのものではなく、手放して二度と戻らない感受性に対する痛みと悲しみであるように受け取った。

視聴後にふと「草原の輝き」という古い洋画を思い出した。こちらも青春の恋と障害、そして思いがけず変わってしまった未来について描かれている。20年以上前に観たこの映画のセリフをたったひとつだけ今でも覚えている。

「乾いた泉は戻らない。草原の輝きは二度と戻らない」

うろ覚えで正確ではないが、「取り返しのつかないことはある」と、ガーンと来たので覚えている。麦の一度硬直した心はきっと以前と同じ形には戻らないだろう。別に悪いわけでもない。生存に有利な適応なら、彼が是とするならば、「喪失」ではなく「変化」とするなら、それはそれで良い。ただ、感じやすい中年には少し悲しいというだけだ。