ドラマ

ドラマ「梨泰院クラス」

はじめに

たまたま春先に視聴し、強烈に面白かったのでレビューを書こうかと思ったが、面倒だったので酒を飲んで余韻に酔うにとどまった。

そのうち、リメイク版「六本木クラス」の制作発表があり、ネーミングのダサさにまいった。香川照之オンステージになるだけで、「100%劣化版になるからやめとけ」と思った。

そうこうしているうちに、梨泰院クラスとは関係ないが、人間観察として好きな番組バチェロレッテ2の放送日が決定した。2022年7月7日だという。「そうか、やるのか・・・」と思っていると、六本木クラスも同日放送開始だという。みんな七夕が好きだな。

別にこの偶然になんの意味もないが、私の中では符号が立った。梨泰院クラスを視聴してからずっと考えていたテーマがあって、別に現段階で出してもいいし、もっと寝かせてもいいと思っていた。最近ズボラ度が増していて、こんなことでもなければ記事を書けないので書いてみたい。いつも通りネタバレはなしだ。

登場人物

Netflixのドラマ紹介には次のように書かれている。

”ソウル市の飲食店激戦区・梨泰院を舞台に、飲食業界での成功を目指して仲間と共に奮闘する若者たちを描いている”

Netflixは宣伝をする気があるのか(笑)。このあらすじを読んでも全く食指が動かず、それはそれは長いことリストに入れっぱなしにしていた。そう、私は海外ドラマの吹替えが好きなのだ。なかでも韓国ドラマの吹替えは、声優のテンションが一定に抑えられていて聞きやすく、よく作業用BGMとして利用している。最近は構成力・演技力の観点からも韓国ドラマが突き抜けていてよく視聴しており、いよいよ吹替え版が尽きてきたところで、やれやれと視聴開始したが、予想はいい方向にフルスイングで裏切られ、貪るように3日ぐらいで視聴完了するに至った。

内向型ヒーローのカッコよさ

見始めた頃の印象は、主人公の髪型が強烈で「バットマンみたいやな」と思い、心のなかで「いがぐり」と呼んでいた。韓国ドラマは導入部が長くて冗長なものも多いが、内向的で型外れな主人公(いがぐり)の様子は興味深く、それなりに面白く視聴していた。

何話だったか忘れたが、主人公の「俺は揺らがない」という台詞に私は心ごと持っていかれた。惚れた。こんなにカッコいいヒーローが今までいただろうか・・・

内に情熱を秘め完遂する用意周到さ、己の軸、そういった内向型由来の強さが、どんどん主人公を魅力的にしていく。あと、誰だか知らんが吹替えの声もすごくカッコいい。

ヒロインのカッコよさ

梨泰院クラスのヒーロー以上にカッコいいのが、ヒロインだ。とは言え、見始めた頃の印象は随分トリッキーで、映画「魔女」の主人公を演じていた俳優だったので、心のなかで「魔女っ子」と呼んでいた。ヒロインの型破りな行動は小気味よく可愛らしくて、ドラマのテンポの良さにも繋がっている。

そんなヒロインに、そして、俳優の演技にも衝撃を受けたシーンがある。

「愛する」

これも何話だったかは忘れたが、バーでヒーローとヒロインが語らうシーンがある。酔っ払ってしまったヒーローをヒロインが抱き起こすのだが、このシーンが凄い。寒気がするほどの戦慄だった。

そう、このシーンでヒロインは「私はこの人を愛する。私が幸せにする」と決意するのだ。

恋に落ちるシーンは描かれることが多いが、「愛する」決意が描かれることは少ない。そして、こんなに心が震える演技を見たのは久しぶりだった。

登場人物の紹介はこの辺にしておいて、そろそろ本題に入りたいと思う。梨泰院クラスは、ここ数年でイチオシのドラマなので、未視聴の方は是非チェックしてみてほしい。

愛されることは幸せ(楽)だけどね

個人的なことだが、私は恋愛に対して、やる気・元気・根気がない。モラルもちょっと一般的なものとはズレている自覚もある。そんな私が「付き合う」という一応の体裁をとった場合の始まりは、言葉がある場合もない場合もあるが、「好き。付き合おう」「おけ」みたいなノリだ。もうちょっと情緒はあるけれども。

それなりに相手を心地よく思っているから「おけ」なのだが、己の最高熱量ではない場合も多く、そんなとき、嘘がつけないので「好き」とは絶対に言わない。これが自分なりの誠実なのだが、誠実ならそもそも付き合うなよという思いもあるし、好意に応えるのは慈悲だし、未来の可能性を見ているという傲慢で小狡い言い訳もある。そして、正直にクズ発言をしてしまうと、風よけのために男性身体が必要なシーンは結構多いというのもある。レンタルなんもしない人が近くにいたら、私はそっちを利用したかもしれない。

こんなとき、自分が社会不適合者(に見える)なのだろうなぁと思うのだが、惚れっぽい割に、私はあまり他人に興味が持てないし、あまり好きにもならない。そんな私の恋愛は、相手の情熱頼みで始まり、相手の情熱次第で終焉を迎える。別に優位というわけでもなく、消費されているように感じることもある。まぁ、私の態度と心根が悪いのかもしれない。

さて、恥部を晒した上で続けたい。私ほどクズ度は高くないかもしれないが、「求愛に応じる」お付き合いは世に溢れているのではないだろうか。率直に、大多数の女性にはそういう恋愛経験があると思う。

他者から先に愛されていることは、気味の悪い秋波や性的興味が先行し過ぎていない限り、安心を与え、自尊心をくすぐり、ほっこり照れるような気持ちとそれなりの幸福をもたらすものだと思うし、悪いわけでもない。実際私もそういうものが恋愛で、今生の愛は応える派なんだろうと思っている。

ただ、数は圧倒的に少ないが、私自身が「その人物を見つけ愛した」という経験がある。これらはほとんどの場合成就せず、一番心に残っているのは、全員が一方通行のありふれた三角関係だ。私は彼が好きな女性を見つめる優しい横顔が好きだった。彼に会えるだけで幸せだったし、彼女とうまくいって幸せでいてほしいと願ってもいた。自分が焦がれていたのは、彼の視線と想い、そしてそれを為せる彼の人格で、それを伴わない何をもプライドが高い私は得ようとさえ思わなかった。当時の思いとしては、嫉妬することも、寂しい気持ちになることも多々あったのだが、時を経て思うことは違う。

人の幸福を願える私は確かに幸せだった。豊かで満たされていた。そして、自分のなかに美しい感情があること、そんな自分の強さが誇らしく愛おしい。

愛は意志

私の好きな言葉に「好きは感情、愛は意志」(三浦綾子)がある。当時の私の幸福は、愛する人の幸福が前提で、それに貢献していたかった。人の幸福は願う他に、より能動的に働きかける人もいるだろうし、選択は様々だ。私はその時も、それ以降も、愛する人の幸福を願うとき、「生(き)のまま」でその人が存在できるように動く。私が愛するものは、例外なくそのままで素晴らしいので、余計な干渉をしたくない。触媒になることはあっても、その者の人生の変数になりたくはない。それが私の愛するという意志だ。

そんな事をしても、結局得られるものはないんじゃないかと思うだろうか?しかし、それは短慮が過ぎるし、特別な相手に対しては、そもそも何かを得ようなどという発想が出て来ない。ただただ、溢れるものを与えたくなる。

愛される方が幸せだという言説が世には広まっているが、本当にそうだろうか。よくよく考えてみてほしい。求愛し、相手が応じてくれた場合、飛び上がるほど高揚するのは求愛側ではないだろうか。応答者は自尊感情をくすぐられることはあっても、想いがなければぶっちゃけテンションは上がらずデートは退屈そのものだ。デートではしゃぐのは、いつも想いが大きい方だ。互いの感情が影響・共鳴し高まることはあるし、大げさに振られる犬の尻尾に優越や喜びを感じることもあるだろうが、自分の愛する人と一緒にいられる多幸感には到底及ばない。

相手の愛情頼みの恋愛は、一見優位であるように思えて、案外相手の感情次第でコントロール下にあるとも言える。また、時折理想化された自画像を押し付けられて辟易することもある。

対照的に、自ら愛した場合、相手の幸福を願い、相手の喜びを探そうとする優しい感情が絶えず内側から湧き出る。そして最も素晴らしい効果は、大いなる勇気に包まれることだ。「愛されているか」は疑うことがあっても、自らの意志「愛している」を疑うことはないからだ。関係性にこだわって不安に思うこともなければ、愛の始まりも終わりも、自らがその意志で選択できる。「愛する」ことは自然発生ではなく決断なのだ。

そして何より、こんなにも美しい部分が自分にあったのかと感動するし、そんな自分を愛し信じられるようになる。

愛する人には滅多に出会えない

そして、忘れてはならない事実として、「愛される」よりも、「自分が幸せにしたい。痛みを引き受けてやりたい」と全身全霊でコミットできるような「愛する」人を見つける方がずっとずっと難しい。どうしようもなく心が動き、自覚し、そして何より相手の幸福を願えること、これは奇跡だ。たとえ応答がなくとも、絶えず湧き上がる愛に心満たされながら、この人の代わりが絶対にいないという確信と不安も抱く・・・そんな出会いが訪れたら、絶対に手放してはならない。その人はきっとあなたの人生にとって必要な人だ。

韓国の俳優たち

こんな様子を体現する梨泰院クラスのヒロインは見応えがある。そして、日本版リメイクが制作されるということを受けて、韓国と日本の俳優の違いについて気づいたことを最後に書いておきたい。必要な文脈なので、少しルッキズム全開の話をする。不快だろうが許してほしい。

梨泰院クラスの主要キャストはそれぞれ魅力的なのだが、容姿の魅力を引き算した役作りをしている。実はこのドラマを長らく放置して視聴しなかったのは、キービジュアルに私の好きなタイプが誰一人いなかったこともある。だって、いがぐりだよ。あの髪型はないだろ。

半眼を閉じて1話目を視聴することになったが、とある教室のシーンで「おや?」と思う。あれ、彼の行動がカッコいい・・・とか思い始める。話数が進む度に、あれ、彼の意志の強さがカッコいい・・・とかどんどん足し算されていく。呼び名はいがぐりではなくなった。

ヒロインも同じで、どんどんキャラクターの魅力にハマっていく。そして、彼女が「愛する」と決意したシーン以降、ふっと彼女の視点を乗っ取るような感覚さえあった。彼女の魔力に完全に引き込まれてしまった。

視聴後に放心しながら考えていたのは、彼らのビジュアルは意図的な演出であるということだ。内面の魅力が引き立つように、容姿の魅力を極限まで抑えているのだ。まぁ、途中から内面に惚れ込んでしまうので、ああ、何しててもカッコいいわ、ワッショイ!みたいな気持ちになっちゃうんだけど。

私はこの演出に感動した。これって日本版のキービジュアルを見る限り、そんな観点さえなさそうだし、売出中の主要キャストがビジュアルを落とすなんて実際できないんじゃないだろうか。そもそも日本のドラマは、容姿の優位性を全面に押し出してくることが多く、演技もできない大根役者やアイドルが主役を張る。そもそも、梨泰院クラスのように、キャラクターとストーリーで魅せようという意識に欠け、近年愛想を尽かした視聴者離れが顕著なのはご存知のとおりだ。

演技レベル

そして、その影響が最も出てきているのは、俳優の演技レベルだろう。この日韓の差はもうかなりエグい。吹替えで視聴した場合は、声優の演技力補正が入っているということもあるが、それを差し引いても、日本のドラマは発声もできない者が出演していてビビることがある。

韓国俳優は国策である演劇大学を卒業しているため、作品の解釈・表現・歴史的背景などをしっかり学んでおり、ほとんどの役者がその役柄に見える。日本のドラマを見ていると、極端な例は木村拓哉だが、何をしても木村拓哉的なことは結構ある。

加えて、大学という間口を設けているためか、身体造形の許容範囲がとても広い。率直に言うと、万人受けしそうな美形もいるにはいるが、個性的な面々もかなりいる。この多様性がリアリティやある種の安心感を与えてくれるし、健全な競争によって切磋琢磨され続ける今後に期待もできる。

日本も近頃演劇界のMetooが叫ばれているが、なかなか改革が遅々として進まない。日本語文化をしっかりと残したいと思うのであれば、今こそ演劇界のキャリアパスの整備とキャスティングの透明化が急務だと思う。もうとっくに抱き合わせセット販売の役者はバレているし、視聴者は呆れてるぞ。

そして、もっと色々な容姿・属性の俳優が増えるといいなと思う。あまり美意識が統一されすぎているのは健全とは言えないし、社会が成熟していない証でもある。美形が魅力的なのはもちろんそうなのだが、主役しかできないために、中年期以降の展開に苦しんでいる俳優も多い。それよりはメイク次第で七変化できる造作の方が息が長く、作品に恵まれるのも事実だろう。

日本版のストーリーが分からないが、梨泰院クラスでは2人ほどマイノリティ属性の人物が登場する。こういった部分も表現としては重要なのに、その属性の俳優を日本で起用しなかったことは残念に思っている。

さて、長々と偉そうに愛についての講釈を書いてしまったが、梨泰院クラスのドラマ自体は、甘々な恋愛ものという訳でもなく、ネタバレになるので明かせないがもう一つ大きな軸で展開する。スピード感があってワクワクが止まらないので、まだの方は是非視聴していてほしい。絶対に損はさせない。