リアリティショー

書籍「薔薇はいいから議席をくれよ」/キム・ジナ

【書評】★★★☆☆(70点)

はじめに

さて、バチェロレッテ2の放送まで一ヶ月を切った。今か今かと楽しみにしているあなたに、刺激的なタイトルの本を一冊ご紹介したい。

ショーの開始前に幾つか観点を持っておくことで、「彼女はどう選択するだろうか。またどう言質を取っていくだろうか」「自分ならどう選択するだろうか」と、虚像の世界観に深みも出る。今回もバチェロレッテ2伴走記事を書く予定なので、気が向いたらそちらも読んでいただければ幸いだ。

旅には準備が必要だ。まず、水と食料、そして観点を手に入れよう。

著者紹介

本・映画が大ヒットした「82年生まれ、キム・ジヨン」を発端に、韓国のフェミニズム文学が今花開いている。そんな中で運動家として飛び抜けてセンセーショナルな登場をしたのが本作品の著者キム・ジナだ。彼女は、日本では滅多にお目にかかることのできない媚びない表情で表紙を飾っている。日本ではアナウンサーでさえ女性がこの表情でいることは許されない。

彼女の存在を知ったのは2021年4月のソウル市長候補の記事だった。キム・ジナの掲げた「女性一人でも暮らしやすいソウル」とのキャッチコピーは、光の速さで海を超え、全世界へ拡散され、私の脳にまでガツンと強い衝撃をもたらした。家父長制への真正面からのファイティングポーズ、これほどの新鮮な頼もしさを感じたのは初めてだ。

女性の生きづらさに、ここまで明確に集中した政党はかつてない。女性だけで構成する「女性の党」は、全ての公約を女性政策としてまとめ上げ、これまで権力の主要ターゲットして注目されたことが一度もなかった「単身非婚女性」に焦点を当てた。ここまでできるのは、政党に男性がいないからだと言う。あらゆる場面で権力を握る男性に忖度する必要がない政党、私たち女性には本当はこれが必要だったんじゃないだろうか。

私の読者にはいないと思うが、馬鹿のために一応言っておく。これでもかこれでもかと不利益を被る単身非婚女性の権利を守ることは、即ち他の民族・障害・性的なマイノリティを守ることに繋がる。決して女性優遇ではなく、単身非婚女性が暮らしやすい社会は、誰にとっても暮らしやすい社会であり、彼女はこれを追求することを約束し選挙に挑んだ。結果として彼女は当選しなかったが、20代女性の15.1%が彼女に投票したという事実が残った。首位を争うような巨大政党ではなく、泡沫候補と思われても仕方がない弱小政党に対して、1票を無駄にするかもしれないという葛藤に打ち勝ち、彼女を支持した人間がこれだけいるのは驚嘆に値するエポックだ。

若年女性が強く支持したという事実は、韓国の政治土壌に種を巻いた。そして、風に乗って日本社会にもいつしか芽吹くことだろう。思想に国境はない。どれほど時の権力者が抑え込もうとしても、深い静けさのなかでその時を待っている。

自己検閲

さて、ここからは個人的に響いた部分を抜粋していきたい。何か感じるものがあったら、是非本書を手に取ってみてほしい。便宜上、シンプルに男女で書き分けていくが、マジョリティとマイノリティとうまく読み替えてもらってもいい。

一般的に男性は自分の意見に自信を持ちやすく、女性は持ちづらいと言われる。たとえ何か女性が訴えても、男性にはその事象が見えず「そんなこと聞いたことない。勘違いだろう」と切り捨てがちだ。度重なる否定を受けて、女性は自分の意見を過度に自己検閲すると著者は指摘する。

教室の前と後

マジョリティとマイノリティの関係は、よく教室の前列(マジョリティ)と後列(マイノリティ)に例えられる。立場の違いを体験するための遊びがあるので紹介したい。一人ひとりが紙くずを持ち、前方の教壇に設置しているゴミ箱に投げ入れ、成功した者は社会階層を上がる(前列へ移動)ことができ、最終的に投げ入れられたゴミの個数で勝敗を決めるというルールだ。

当然、前列にいる方が有利であり、後列側は不公平だと指摘するが、前列側は「自分たちも同じ動作(努力)をしている」と考え、その優位性に気づきづらい。しかし、後列にいる者にとっては、ゴミ箱までの距離とコントロールの難しさが一目瞭然で、それがフェアではないと、ルールの設定自体が不当なものであると主張する訳だ。これはまさに今、階層が固定化されてしまった日本社会で起きていることではないだろうか。

このように、後列にいる者(マイノリティ)だけが見えている世界がある。彼らが言葉を発した時、己の特権性を認めたくないマジョリティは指摘を否定したい誘惑に駆られ、実際そうする。

さて、そんな感じで否定され続けた女性がどうなるかというと、当然ながら自分の意見に自信を持ちづらくなる。何度も何度もあらゆる方向から検証し、やっとの思いで発言する。発言するならまだ良いが、飲み込まれてしまう言葉はその1000倍あるだろう。これは社会的な損失でもある。

自分の意見を批判的に考えるのは思考法として真っ当であり、これ自体は悪いことではない。むしろ強みなので、女性は何かを思いついたら、発言が難しいなら内に秘めていてもいいので、個として己が感じたこと、考えたことを簡単に諦めてしまわないでほしい。それは単純に性別という下らないものに起因して軽んじられているだけかもしれないのだから。著者は続ける。「自分」という強力な変数を含んだ言葉を大切にしろと。

死の誘惑

全ての姉妹へ向けて、本書で一番力強い言葉を全文引用したい。

”死は徹底して個人的な経験だ。しかし権力も経済力もない若い女性たちが感じる死の誘惑となれば、それは明らかに集団的経験だ。裏にはまともな就職先と自立の機会を与えない男性中心社会の構造的暴力が潜んでいる。自分を取り巻く苦痛が決して個人的な至らなさやあやまちや不運のためではないという事実、何も言わずに消えたい誘惑は自分だけでなく多くの女性が抱いている苦痛の経験だという事実を、女性たちに知ってほしい。女たちを死に追いやり続ける現実に立ち向かい、「一人の姉妹も失うものか」と叫ぶ声を記憶に刻んだならば、ある種の自殺は明白な虐殺であるという洞察を共有できたならば、あなたはきっと、あなたの隣で同じ誘惑にさらされている女性を引き戻そうとしてあげるはずだ。あなた自身が頼もしいロープになれると気づくはずだ。私の闘争はそのまま女性たちの普遍の闘争であると、気づいた私がそうしたように。”  「薔薇はいいから議席をくれよ」より引用

男というクライアント

著者は次のように男性との交際経験を述懐している。仕事上のクライアントを相手するように、恋人の機嫌を取り、受け入れられようとする自分がいたと。

この感覚は私もよく分かる。男性のウケを誘うには、女性らしさという従属を見せるのが一番手っ取り早い。婚活ともなると、尚更この部分が重要になる。

私も相手の機嫌を損ねないように動き、下手くそに対して直接的な「ヘッタクソ」は勿論、オブラートに包んだ「物足りない」とさえも言えたことがない。100%機嫌を損ねるし、更にどつかれるかもしれないし、キレ散らかされるかもしれないからだ。相手の態度に不満があれば私は何も告げずそっと離れる。人間関係の全般において、やる気・元気・根気がないため見切りが早い。男性に対する期待値もほぼないが、それでも0でないのは、数少ない成熟男性に出会った経験があるからだ。自分が心からリラックスして怖がらずに表現できるような男性は希少で常に激戦区であるが一応実在する。そんな相手と出会ったとき、心がクスクスと柔らかくなって踊り出してしまうような感じになるので必ず自覚できる。絶対に手放してはならない。

男性カルテル

さて、人類の文明がまだ浅く通貨が発明されていない時代を思い浮かべてみたい。人々は通貨の代わりに農作物や畜産物などの生産品で物々交換をしながら村落の単位で暮らしていた。そして、その頃から現代に至るまで変わらない、もう一つの裏の通貨がある。それは「女性」である。

家父長制において、女性は穴と袋を持ち、性的快楽を与え、かつ子を産める労働家畜としての資産価値がある。この家畜には一定の知能があるため、時に労働者としても使役できる。ある時は食いつなぐために牛のように売り飛ばし、ある時は権力の結合のために接着剤として女性を婚姻させる。そしてこのような営みは「愛」という言葉にキラキラコーティングされながら現代でも脈々と続いている。

そして、最悪な使い方が男同士の結束の接着剤として女性を使う場合だ。例えば、女性を捧げ物として権力者へ献上し、小物が見返りで権力のおこぼれをもらう。危ういのは時に犯罪性のある性暴力が内包されることも多く、この恥知らずの行いは、まさに今話題のガーシーがやっていることだ。これは企業間取引ではありふれた話で風俗接待などがある。代表的なところであるデヴィ夫人は日本の商社から故フィリピン大統領への貢物だ。彼女の話は、主体性があったかどうかは兎も角「選ばれる女におなりなさい」と言ったようなシンデレラ・ストーリーではない。

また、ときに彼らは共に罪を犯し互いの弱みを握ることで結束を固める。これが輪姦の起こる背景だ。あれは単なる性欲に起因した暴力の発露ではない。クズたちは「俺はここまでできる。俺は弱くない」と、己の蛮行をホモソーシャル向けにアピールしている。

企業で働く女性が困惑するのは風俗接待である。倫理的な部分を別にしても、顧客が求めてきた場合に女性は男性の同僚のようには立ち回れない。結果として業績にも給与にも差も開く。社会が男性中心である限り、このような接待を許す限り、見えないけれどそこには女性を排除する大きなホモソーシャルの結界がある。

出産地図

日本には、自民党の元厚労相・柳沢伯夫による「女性は子を産む機会」という地獄発言があるが、韓国の状態もあまり変わらない。

誰も産むとは宣言していないにも関わらず、出産可能年齢の女性を地図上に表示した地獄地図「大韓民国出産地図」とやらが2016年に発表された。実は公表されていないだけで、日本においても出産可能な女性の人口動態はかなり神経質に取り扱われている。私達女性は「どうにかして産ませたい」という対象として、個ではなく数字としてのみ国家から把握されている。

また、2020年に韓国・国土交通部が住宅供給のために調査した際の「新婚夫婦」の定義が凄い。「新婚夫婦世帯とは、婚姻後7年以内で女性配偶者の年齢が満49歳以下の世帯をいう」舐めとんのか。

当然だが、国土交通部はこの調査結果を元に政策設計をするわけだが、「産まない女性」は徹底的に排除されている。つまり、単身非婚女性を始め、同性カップルも同じように排除されている。

同等の問題は日本にもある。現在各自治体で新婚世帯の家賃補助制度があるが、事実婚や同性カップルは当然のように排除され、かつ、彼らカップルよりも余程生活が困窮しやすい単身非婚女性も恩恵を受けられない。著者は言う、「家父長制下の女性が払わされる基本料金が母性愛、すなわち自己犠牲」であると。いくら納めている税金は同じでも国家は基本料金を払わない「産まない女性」を守ろうとはしない。

さて、バチェロレッテ

取ってつけたようにバチェロレッテ2へリレーしてみたい。今回のヒロインは経営者だ。

選択的夫婦別姓の議論を延々と続ける日本だが、実は今から26年前にはとっくに改正案がまとまっている。圧力をかけて国会提出を阻む自民党の目的は、今回の軍事費5兆円増額でも分かるように、家族を単位とした国民管理を可能とするための家父長制の維持と戦前回帰への妄執だ。

戸籍の話をするとき、単に個人情報の管理という文脈では済まない。妻の名を奪い支配する構造を維持する戸籍は、家父長制と密接な関係がある。

中国と日本以外に存在しない、世界でも稀な戸籍制度の原型は明治時代に定められた。明治民法においては妻を「無能力者」として扱い、銀行口座開設には夫の許可が必要であった。実はこの無能力者の定義がムカつくが面白い。成人女性は一度「能力者」になるが、婚姻時に「無能力者」になると定められていた。つまり婚姻による男性(家父長制)への隷属が義務付けられていたのだ。この時代に合わない制度は、女性が財産や資格を有することや、またそれらを有したまま姓の変更をすることが制度設計から抜け落ちたままの、差別的としか言い様がない負の遺物である。

さて、バチェロレッテに話を戻そう。経営者である彼女は、まず法人を持っている。そして当然銀行口座・クレジットカードを保持し、さらには各種資格、有価証券や不動産も所持しているかもしれない。名義変更と簡単に言うが、これは本当に骨の折れる話で、さらに法人の登記変更は影響範囲が大きい

彼女は選択的夫婦別姓や事実婚の話題を出すだろうか?私はそこに注目している。バチェラー4みたいに好き好きとキラキラしくエンディングを迎えてもそれはそれだが、企業経営者というアイデンティティを持つ女性を主役に据えた以上、それでは全くリアリティがない。仮にこの話題が出なかったとき「ショーだから敢えて避けた」もあり得るが、編集でカット、彼女が言い出しにくかったという可能性もある。そして子供の話が出る場合は、それが主役と男性のいずれ側からであるかという点にも注目している。

バチェロレッテ2を観ながら、もしかしたら私は「薔薇はいいから対等に議論をしてくれよ」と叫んでしまうかもしれない。