リアリティショー

あいの里 #04-last

はじめに

今回は、epi16-18視聴後のレビューとなります。(epi01-08,epi09-12,epi13-15のレビューはこちらから

最終話まで視聴し、何とも言えない気持ちになった。ああ、こんな時は、誰かのガッツリしたレビューを見たり聞いたりしたいもんだと、60代以上のブロガーやYoutuberがいないものかと思ったが、いない。あいの里に最も足りないものはこれだ。状況を俯瞰して話せるオブザーバーのような存在がいない。

経験豊富なシニアの話を聞いてみたいが、こういう下世話な企画に嬉々としてコメントするような人材がいない。非常にニッチだが、需要はあると思うのでガッツのある人には出てきてほしい。あいの里の長期的な成功のためには、おそらくそういう人材の発掘がマストだ。MCや若者達が憶測であーだこーだ推測するのは力不足とミドルの恋愛に対する消費が過ぎるし、私自身も至らなすぎて、軽率にレビューを書き始めてしまったことを最終局面になって後悔している。

結論も出ないまま、ふんわり書き始めるのも気が引けるが、言語化するには年単位の時間と経験が必要だろうし、今回は気になったことをそのまま書き残すことに留めておきたい。

みな姉&中さん

終局におけるみな姉の感受性と動きには目を見張るものがあったが、彼女の視点に潜り込み、彼女の見ている風景を見ようと試みるものの、力量不足でどうにもうまくいかない。このあたりの自分の心の動きも大切にしたいし、無理やりまとめた雑な感想を綴りたくもないので、少し遠回りになるが、このとき自分が感じていたことを伝えたい。

唐突だが、私は東山魁夷の絵画が好きだ。彼の絵は、日本に生きた者なら誰もが「その場所を知っている」「懐かしい」と感じるようなものが多いが、私にとっては更にとても特別な画家だ。

私自身は絵画についての感受性はさほどなく、ひたすらに凡庸だと思うが、東山魁夷の絵画だけは違う。アンテナが合うというのか、感情や思想が勝手に入ってくる。どこか哲学書のような彼の絵画を前に、私はとりとめのない抽象的な対話をすることが多い。

私は創作当時の年齢を加味しながら作品を観るのが好きなのだが、彼のたいていの作品は、「この感情の一端なら知っている。いずれこの感情も知るだろう」というものであるが、ひとつだけその感情の繋がりがプツンと途切れて、音が消えてしまった絵画がある。1990年に82歳の東山が描いた「行く秋」という作品だ。ずっと流れてきていたものが、急に途絶えたのがあまりに衝撃的で忘れられない。そういう理由で足を止めた絵画は初めてで、今でもずっと描かれた情景が分からないままだ。その感情を未だ私は知らない。

あまりに主観的な例え話でピンと来ないかもしれないが、みな姉の在り様にも同じようなことを感じた。私の現在地からの繋がりが希薄で、想像も難しく、語ることもおこがましいと感じる。この辺りは、彼女自身が機会があれば表現するだろうし、お呼びでない外野は口をつぐんでいようと思う。

舞台設定

本編終了後に中さんとの近況報告するみな姉を見たとき、ファッションやメイクの変化に驚いた方も多かったのではないだろうか。私もその一人だ。

あいの里で、終始寮母ポジションに収まっていたみな姉。デート用メイクを生活の場で常用するのは不可能ということだったのかもしれないし、その必要もないが、もう一つ考えられるのは、彼女がわきまえてしまっていた可能性だ。

20歳も年下の女性に浮かれてしまう中さんのような男性とは対照的に、年齢と容姿でジャッジされ続けている女性は、場合によっては3歳差ぐらいでもすごすごとわきまえてしまう生き物だ。みな姉が繰り返す「恋は終わる。期待していない」という物分りのいい言葉は、どこまでが本音で、どこまでが自分が傷つかない予防線であったのだろうかと、楽しそうに中さんとデートをする彼女を見て思った。

やはり、20歳も年下の女性が同居するようなショーにブチ込むのは乱暴が過ぎたのではないだろうか。様々な年齢層が混ざることで得るものがなかったとは思わないが、例えば、お見合いのような席でたった二人で出会ったなら、割と早い時期からああいう感じだったんじゃないだろうか。雑多な水槽の中で、彼女は女性であることが許されず、求められるまま寮母ポジションに甘んじていたのではないかと思う。

そもそも、大学生のコンパに40代のおじさん、おばさんが来ることもないわけで、それがなぜ、リアリティショーになるとその解像度でやってしまうのだろうと思う。こんなところから、やはりミドルの恋愛を面白おかしく描いて、若者が嗤ってやろうという意識が透けて見えるし、尊敬が足りない態度が不快で後味が悪い。

中さん

彼の株は大暴落が止まらない。もう敢えて細かいことは言及しないが、最終的に喫茶店で横並びしている中さんを見て、「こりゃ、本格的にウザいな」と私は思い始めていた。

狭い空間だと、彼のコミカルを通り越した、戦隊ヒーローの中の人のような、妙に大ぶりで滑稽な動きとお調子者テンションが際立つ。心から苦手なタイプだ。経験を重ねた方に申し訳ないが、ウザいウザいと思いつつ、チョロそうとも思っていた。

みな姉は、心を開ききって甘々になってしまう前なら、彼のようなタイプは完全に掌握できて御せる人だと思う。資産状況と婚姻届について語っていたときも、私は彼女には姻族(中さんの両親)を新たに獲得することへの計算が既にあるのだと思いながら見ていた。劇中では語られていなかったが、中さんは16歳12歳の娘と、健在ならばそこそこの年齢のご両親&義両親がいるはずで、彼が絶対安心カード「両親の介護は必要ありません」を一度も口にしていないのが私は気になっていた。

劇中で登場する腰痛・差し歯・おむつというパワーワードばかりが注目されていたが、あの年齢層の話題で親の介護問題が出てこないのも不自然ではある。あまりに夢がない話題ではあるが、婚姻は契約であり、昨今は死後離婚(婚姻関係終了届)が話題となるほど、義理親の介護はホットなテーマだ。

彼らは単なるデート相手としてやっていくのか、いずれ同居をするのか、婚姻するのか、公正証書を交わすのか、先のことは分からないが、その身ひとつで恋ができない不自由さを思いながら、また、それが既に手にしている幸福や責任のためでもあるという複雑さに、何とも言えない気持ちになるのであった。

沼ぴぃ

41歳という年齢の彼が、「子供を持つ」という可能性を未だ握っていたいという煮えきらない態度に、私は白けきっていた。

当たり前だが精子も劣化する。受精率や妊娠継続にも影響を及ぼすため、男性も40歳ともなれば決断するべき時期に来ている。彼には「子を持ちたい」と切に願い動く様子もなければ、子を持たない人生への覚悟もできていない。なんじゃそりゃ。他者と真剣な関係を築く以前の問題で、己の人生への解像度があまりに低い。

その他のみなさん

ユキえもんが滑り込みで楽しそうにしていて良かった良かった。彼女はスナックでも経営すればそこそこ当たりそうな気がする。アンチョビを手懐けて顎で使っていそうな絵面も思い浮かぶ。すっかり影が薄くなってしまったトモちんとベイブルは、投入時期が不幸だったとしか言いようがない。活躍の機会もなく残念だった。

次回に期待すること

Twitterで感想を拾ってみても、「35歳以上ってどうなの?と思って見始めたが、面白かった」という画一的な視聴報告が多く、深く心情を分析しているようなつぶやきが少ないことから、ライトな層に受ける企画で、消費の側面が強いコンテンツであったことが伺える。

個人的には粗雑で安っぽい作りが気になったのと、細かいことを言えば、登場人物のニックネームに「ひらがな」を使ってしまうあたりが、レビュアーを意識していない平成初期の古い感覚のように思えた。私のようなへっぽこブロガーでも、文字の視認性には一応気を遣っていて、「じょにい・おかよ・ゆうこりん・みな姉・たあ坊」のように、冒頭、もしくは全体が平仮名であったり、小文字か大文字か迷ってしまうような彼らのニックネームはひたすらに扱いにくかった。妙な部分に句読点を入れなければならないことにも疲れ、なけなしのやる気も削がれた。つぶやきにも誤用が溢れており、検索にも影響するので、もう少し時代を勘案した名付けセンスが必要だろう。

このままのテイストで2期が登場したとしても、多分私は視聴しない。嗤うことを目的に制作していないと言うのなら、もっと眩しいミドルを集めてみてほしい。例えば、私が今最高にセクシーだと思うミドルの筆頭は石田泰尚のような存在だが、彼のような色気のある人間のデートシーンがあるなら見てみたいと思う。

ソジンの家

さて、なんの繋がりもない話なのだが、あいの里と同時につまんでいたリアリティショーがあるので紹介したい。「ソジンの家」は韓国のタレントが飲食店を経営するという、少し毛色の違った企画ショーで、私はパク・ソジュン目当てで数話視聴していた。

内容は、出演者のファンでもなければダルいだろうと思うし、取り立てて言及することもないのだが、驚いたのは番組に登場するテロップや解説だ。全てのテロップが英語なのだ

二週続けて韓国の話題になってしまうが、彼らの国策には本当に驚かされる。韓国のバラエティ番組を見るのが初めてだったので、いつ頃からこんなことになっていたのかは分からないが、始終ポップな文字で映し出される英語テロップは、様々な文法と単語を伴い、知らず知らずのうちに学習させているようなものであったし、もちろん世界展開にも有利である。

普段から韓国の映画やドラマを視聴しているなら、ある時点から、役者の英語発音が劇的に変わったことに気づいている方も多いだろうと思う。皆、滑らかな発音をする。これは国策としてやっていて、韓国は世界との言語障壁を乗り越えようとしており、もう最終局面に近い。

一方、日本の英語教育やバラエティ番組の貧弱さにはめまいがする。おそらく日本政府は一般国民に英語を習得させるつもりがない。国民全体を宗教二世のように世界から隔絶し、外で報じられているニュースを読ませる気がない。やる気もない、成果も出ない英語教育に費やされる税金を思うとクラクラする。

こういう部分に危機感を持った作り手が出てこないものかと切に願うとともに、子育て中の方は、一度ソジンの家を視聴してみてほしい。次世代の若者は、こういう環境で楽しみながら英語のシャワーを浴び続けた人間たちと渡り合って行かなければならないのだ。