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バチェロレッテ #04

©2020 Warner Bros. International Television Production Limited

はじめに

今回は、epi09とトークSPを視聴した時点でのレビューとなります。
epi01-04の感想epi05-06の感想epi07+αの感想はこちらです)

最終回のレビューは書き始めるのにとても時間がかかった。それは、スタジオトークに疲弊し回復に時間を要したこともあるし、自分自身を省みるために長い対話の時間を持ったためでもある。

そして、正直なところ、ある一定の感性がないと萌子氏のことは理解できないのではないかと思え、書くことを躊躇う領域があった。個人的な分析は全て「感性」に帰結するが、おそらく多くの者があらゆる感情を持ったであろう最終回を、単純な分析で乱暴に切り捨ててしまうことも何か違うように思った。

それぞれが感じたことを大切に、できれば深く共有していきたいが、内向型を読者対象としていた私が、果たしてその範囲外に届けられるのかとの懸念もあり、どの範囲でどう書いていくかということに大いに迷ってしまった。

結論として、私は私の読者を信じることにした。「感性が何かピンとこない」そんな方にも何かしら届けばと願い、拙いままでできる限り全て書いてみようと思う。

人の何倍もの深さで喜びや痛み悲しみを感じ、時にはその深い洞察力が10年20年先を読むことがある、そんなひとりの特別に孤独な人間を想像しながら読み進めていただけたらと思う。

黄皓氏

©2020 Warner Bros. International Television Production Limited

人が持つ資産には「経済的資産(金品など)」「人(家族・友人)」「才能(容姿・運動神経・芸術性など)」がある。

これらの資産は減ることもあるが、努力で増やしていけるのに対して、「心の豊かさや感性」はそう簡単にはいかない。そもそも持てる者が少なく貴重なことに加えて、後から得ることが難しい能力でもある。そして、萌子氏はこの「感性」を一番重要視しているように思える。

「感性」とは分かるようで分からない言葉だ。何かを知覚したときに、どの程度の想像力や深さで印象や意味を受け取り、また、表現できるかという能力のことだ。体感的には、遺伝的要素と幼少期の生育環境の影響がとても大きいように思う。

感性の鋭い者は、例えば「青」を単なる青とは認識しない。人が数色で認識するところを、何千色のグラデーションで認識している。(e.g.杉田氏)愛の種類や自分の心の状態についても、同じように繊細に分類していることだろう。

感性を軽視する者が、目に見える物や規律を重要視するのに比べて、感性を重視する者は、見えずとも存在する精神的なものや己の心に従う傾向がある。ときに感性豊かな者がワガママに見えてしまうのは、こんなところが影響しているのではないかと思う。

感性を重視する者は、それを軽視する者をどこか凡庸で退屈な者だと失望を感じながらも、反面羨ましくも思っている。感性は磨くことができても、鈍らせることが難しい能力でもあり、これは知らなくていいことまで気づかせ、そのまま生きづらさに通じてしまうからだ。

黄皓氏から発せられていた「個性あるもの」へのコンプレックスについて思うことがある。「ルックスが個性的」といった事象を除けば、強い個性とは感性が特段に豊かであったり異質であったりする者のことを指し、憧れや嫉妬の対象になることも多いが、実のところ本人達の捉え方は少し異なる。

誰もが好ましく思い、価値観を共有できる「明るさ陽気さ」などの特性を除けば、強い個性は集団からその感性に違和感を持たれることが多く、隠そうとしても紛れようとしても、どうしようもなく浮いてしまう。結果として、あらゆるコミュニティからパージ(追放)され続け、常に一定の生きづらさを伴う

ずっと仲間に入れてほしくて自分を隠し、ときに心を殺そうとすることもあるが、嘘もまたつけない。そんな不器用な究極のマイノリティが強い個性の正体だ。「個性的になりたい」と思っている者とは根本的に違う。

彼らが自分の個性を肯定的に受容できるようになるまでには、長い時間と理解者との出会いが必要で、実際萌子氏のような強すぎる感受性を持つ者があの年齢までサバイヴしていることは奇跡に近い

では、これらを踏まえて、レストランでの様子を詳しく見ていこう。
萌子氏のお母様と対面した黄皓氏はいつものようにそつがない。特に落ち度もないが、交わされる会話はどこか形式的で空々しい。やはり彼はどこまでもズレている。

墓や姓のことなど、所詮は人間が人間に対して定めた法に過ぎない。そんなことよりも、萌子氏にとっては大切なことがあるのではないのだろうか。そして、それがあれば、解決の道は、いかようにでも二人で探していけるのではないだろうか。

屋久島のホテルでパジャマ姿をさっと整え出迎える彼女は、恋する少女のようで可愛らしい。ベッドの上で薄い緊張感を保つ初々しい二人の様子も微笑ましい。彼に対しては爽やかさの範疇で軽い誘惑をかけている。

その後、ディナーに向かう彼女のインタビューを覚えているだろうか。あの闘いに挑むような覚悟と勇気を振り絞るような様子を思い出してほしい。これを忘れてしまうと根本的に彼女を見誤ってしまう。

「リスクマネジメントするの止めない?」との萌子氏の言葉には衝撃を受けた。私自身、ここまで、たとえ恋人であっても踏み込んだことがあっただろうか。私は相手に話をかわされることを恐れ、自分の先を見通すような洞察力を過信し、いつしか相手の可能性を見くびる傲慢さを持っていたように思う。この萌子氏の身体の隅々から勇気をかき集めて必死で踏み込む様子から、大切なことを学んだような気がする。この心へのノックは愛があるからできることで、自分が些末に思う人間に対して、普通ここまでは踏み込めない。

論理的に自省しながら答える黄皓氏からは頭の良さが伺えるが、企画上「何言ってるの。君は考えすぎだよ」とカメラから逃げられなかったことも少なからず影響しているだろう。たった二人の空間で、本当に向き合える器を持つ人間はどの程度いるのだろうか。

自分の弱さとずるさを認めた彼の表情は人間らしく、いつもそうあればいいのにと思った。仮面は魅力的であっても、決して誰かに深く愛されることはない。

萌子氏は、彼のなかにどこか傷のようなものを見つけていて、ずっとそれをどうにかしてあげたかったのではないだろうか。本心からしっかり向き合おうとしない彼に発破をかけ、最後に愛情を持ってそれを指摘したように見える。

黄皓氏は、萌子氏があれほど勇気を出してノックをしないことには自分を出さなかった。そんな彼との将来には不安が残る。いつしか言葉を飲み込み、ため息で喉が詰まってしまうかもしれない。同じ深さで物事を受け止めることができない感性のズレは、いつしか諦めや失望に変わり、砂を噛むような日々を過ごすことになるかもしれない。彼女の深い洞察力は、そんな未来を見通したのではないだろうか。

素直な気持ちを吐露したカウンセリング後の黄皓氏は清々しい表情をしており、彼が普段どれほど抑圧的な世界に生きているのだろうと感じさせる。いつか伸び伸びと自分を表現できたら良いなと思う。

ローズセレモニーで別れ際にハグを交わした黄皓氏の切なそうな表情が胸に残った。彼は最後の最後に一番素敵な表情を見せてくれた。

この二人には、人間同士が真摯に向き合う崇高な姿を見せてもらった。バチェロレッテで一番考えさせられるシーンだったかもしれない。

杉田陽平氏

©2020 Warner Bros. International Television Production Limited

萌子氏のお母様とレストランで話す様子は、黄皓氏と比べると明らかな温度差がある。お互いがイメージでポンポンやり取りをしているような、とたんに空間が色づいたかのような華やぎがある。そして萌子氏のお母様の感受性がまた相当なものだ。これは黄皓氏では全く引き出せていない。杉田氏の感性を受け、お母様の目は一瞬で信頼を示し、次の瞬間には「私はこの娘の母です」とおどける様子まであった。ずっと三人で話し続けられそうな雰囲気だ。

萌子氏を超えるような感受性を持つお母様が人生の伴侶を見つけていることは、ある意味奇跡だが、最も身近なところにその好例があることも、彼女の人生観に大きな影響を与えているのだろうし、探し続ける一つの理由かもしれない。

屋久島のホテルで、早朝に杉田氏を小走りで嬉しそうに迎えながらも、スポーティな装いの彼女を見て悲しい予感があった。彼を「男として見られない」というよりは「男として見たくない」がしっくりくる。彼女は彼の前で「女」でありたくないのだろう。

バスタブに埋もれて遊ぶ二人は、性の匂いのしない天使が戯れているようだ。私達の身体が変わるずっと前、何より純粋で伸びやかに生きていられた頃を思い出させる。ずっと子供でいられたら、魂の近い二人はずっと一緒にいられたかもしれない。

深い性愛を本当の意味で体験する者は少ない。それはどこか凶暴な肉体的精神的欲求を伴っていて、相手を頭からかじりついて飲み込んでしまいたいし、飲み込まれてしまいたい。相手の中に深く入って入られて精神ごと混ざり合うために躰の殻が邪魔に思えるほどのものだ。そんな感覚を彼女は既に知り、再度求めているのではないだろうか。自分の内側を根底から作り変えてしまうようなエネルギーだ。また、この強い想いこそが彼女が子供を産むために必要な気がする。

彼女の子供はきっと素晴らしいが、恐ろしいほどの感受性を引き継いで生まれてくることになる。母親の迷いを見抜き、全てを察するほどの鋭さを持つかもしれない。やはりいい加減なことなどできないのだろう。

試してみれば心は変わるという意見もあるが、通常このような聖域に入れた人間を別枠で捉え直すことはほとんどない。それは生きていくために必要な永遠の還る場所であり、守ろうとする力が強く働く。そして、どこまでバスタブの日々を繰り返しても、彼と同じ想いを返すことができないことを彼女は悟ったのだと思う。

雨音が聞こえるなかで、萌子氏の目に写った光ごと描こうとする情景は切ないが美しい。これほど魂が近くにいながら、その想いが違うことを確信した涙だったのかもしれない。

スタジオで再度想いを告げる杉田氏からは男性的な魅力が香り立つようだ。最後のローズセレモニーでの「泣かないで」「立ち木になりたい」という言葉からも、彼と彼女が同じ孤独や繊細な感受性を抱えており、そんな彼女の側にいたいという想いと、傷だらけになりながら、なおひとりで立とうとする彼女に対して「見ていられない。痛みを半分引き受けてやりたい」そんな想いが溢れているように感じた。

彼は「ずるくていい。利用していいんだ」と抱きしめながら伝えていて、彼女は半身とも思える彼に対して、そんなことはできず解放したいと思っている。誰より彼の感受性を守りたいのもまた彼女だ。そんな彼女を抱く彼の手はいつも子供をなだめるように優しい。

多くの人間が利害や損得で相対評価で決断していくのとは対照的に、萌子氏は自分の信念を軸に絶対評価で心を決めるのだろう。そして、彼女の繊細すぎる感受性は、何度も繰り返される恋にもう耐えられないのかもしれない。

私は杉田氏を通して、表現が何かと教えてもらったような気がする。これまで表現とは何かしら形あるものを創り出すことだとばかり考えていたが、形のないものを伝えようとすることが既に表現なのだと感じ入った。そして何より彼の存在自身が芸術品のようで、いつまでも眺めていたくなる。

想いという目に見えないものを交わすなかで、様々な表情を見せる萌子氏と、蕾がほころび強い香りを放つような杉田氏。思えば、バチェロレッテは初めから二人の物語だった。杉田氏の出演自体が表現であり作品であったように思う。

恋をした画家の絵は必ず変化する。私はそれが楽しみだ。

ホモソ魔女裁判

スタジオトークは、記憶が飛んでしまうぐらいの負のエネルギーを受け、OH ! NEGI ・・・ !!ぐらいしか覚えていないほどに疲れ切ってしまい、結局時間を置いて2周した。

相手への理解を試みる前に、まずは自分の傷ついたプライドにフォーカスして責め立てる様子がとても醜悪だったし、杉田氏の告白は感動的なシーンではあったが、ホモソーシャルが団結して女性を狩り取るような、YESと言えば許してやるというような構図もあまり気分の良いものではなく、俯いた黄皓氏やローズ氏の繊細な様子だけが救いだった。

素人同然のあの人数の男性陣に対して、セリフや動き、そしてタイミングを入れられたとは思えない。仮に演出があったとて、腹にあるものしか言葉には乗らない。皆が思うほど「つい」も「うっかり」も存在しない。数ある表現のなかで「言葉」だけは人を殺すことがある。本来それを扱う者は、すべからくそれを意識していなければならない。言葉を発した以上、どのように受け取られても仕方ないという覚悟を彼らは持つべきだろうし、ここでは演出がほぼないと仮定して読み解きたいと思う。

最後のローズセレモニー映像を見た直後の男性陣からは、自分たちがまるで「ゴミofゴミ」だと言われたかのような怒りが噴出している。そんなことは私以外誰も言っていないが、きっと全てを否定されるような気持ちだったのだろう。正直どれだけいい自画像だったのか真顔で聞いてみたい。

美肌・瀬戸口氏が登場する萌子氏をいい表情で睨みつけている。その感情はともかく、彼は変にキャラを作らない方が印象に残る。一番彼らしさが出ている。ヒトデのモテ期には早くも陰りが見え、マラカイ氏はコメントする価値さえない。ストールンローズ会談での自分の発言を今こそ見直してほしい。「自分自分自分、一切萌子さんの話してないじゃん」

黄皓氏、杉田氏、ローズ氏は残るべくして残ったと言える。ローズ氏が全て私の思いを代弁している。次点の北原氏は、女性の心の隙間にスッと入ってきそうな油断できない感じがあるが、思い出自体は「萌子氏」「薫子ちゃん」「由佳ちゃん」など固有名詞で几帳面に管理してそうなマシな方の女好きだと思う。マラカイ氏以下は団子だ。

前回のトークSPからサーファー萩原氏がやたら繰り返す「ルール」という言葉が引っかかる。下山氏の「残っているメンバーに期待をかける」、マラカイ氏の「どの時点で無理と分かったのか知りたい」などからも、彼らホモソーシャルは、女性を蚊帳の外とし、いつの間にか連帯しつつ何らかのゲームを競い、チームの誰かが勝利することで少なくとも17位であることを確認したかったのかもしれない。

そもそもルールとは何なのだろうか。バチェロレッテにはもちろんルールが設定されてはいるが、それはエンタテイメント性を追求するためのルール設定であり、決して福田萌子氏を幸せな結婚に導く最良のルールという訳ではない

萌子氏は企画の意図にタダ乗りするのではなく、「愛の正体が知りたい」という彼女自身のテーマ性をもってバチェロレッテに取り組んでいた。そんな真摯な人間の幸福と、たかが企画のエンタメ性など比ぶべくもない。究極の選択時にルールを逸脱してしまったのは仕方がないし騒ぎ立てるほどのことではないと私は思う。誰よりも真剣な者を幸せにしないルールに意味などあろうはずもない。

そして、ルールを与えられるとその範囲内でしか思考できない人間に私は危機感を覚えている。それは思考停止に他ならない。ルールは必ず意図を持って為政者なり企画者なりが定めている。純粋に人の幸福を追求している訳でもなければ、それが保障されているわけでもない。「前提を疑えないこと」これが近年日本で民主主義がワークしなくなっている大きな要因だとも思う。今回の結果を受けてより良いルールを追求すればいいだけの話だ。

バチェロレッテは1人の女性と17人の男性の物語と思えるかもしれないが、福田萌子氏版のバチェロレッテは、1人の女性と1人の男性の物語が17個あっただけだ。そんな17人が個人ではなく集団の理で彼女を責めるのは筋が通らない。彼女が一人ひとりと時間の許す限り真摯に向き合う姿を私達は見てきたはずだ。結論がたとえ意に沿わないものであったとしても、その過程全てが嘘になるわけではなく17人の時間が無駄になったはずもない。彼らは本当に福田萌子氏を見ていたのか。もっと言えば、彼らは強制的に参加させられているわけでもなく、そんなに自分の時間が大切ならばローズを受け取らずに降りる自由さえあったはずだ。

意味は誰かに与えられるものではない。自ら探し見つけていくものだ。部外者の私でさえ今回のバチェロレッテからは多くの物を受け取っている。たったひとつの結果で全てを否定するようなら、何も持って帰れないのは彼ら自身のあり方のせいだと自省したほうがよい。

そんな萩原氏に対して毅然と切り返す萌子氏の姿勢に私はハッとさせられた。そう言えば、私はいつから男性に言い返していないのだろうか。。。最後の記憶は小学校低学年かもしれない。この事実はかなり自分を打ちのめしてしまった。

いつしか恐れから踏み込みが甘くなり、言葉を飲み込み、全ての可能性を探る前にジャッジを下し、限界まで向き合うことを避けてはいなかったか。傲慢で怠惰な自分がそこにはいなかったか。そのようなことを今も記憶をたどりながら考え続けている。過去の棚卸しはいつもしんどい。

2ヶ月があまりに短く、付き合えば変わるかもしれないとの指摘は、萌子氏に関してはナンセンスだ。彼女はその聡明な洞察力でもって10年20年を見通した上で確信があるのだろうし、出産を意識しない男性の呑気さと残酷さには閉口する。

萌子氏が泣きながら深く悩む姿を見て、萩原氏は彼女への理解を示し涙していたが、私はこれを見てなお不愉快だった。通常の我々の生活にカメラクルーはいない。だからこそ、相手の見えない部分については、愛をもって想像力を働かさなければならない。彼にはまるで見えていないし、見ようともしていない。



さて、ここで少し視点を変えてみたい。実は私は、epi07の放送後からSNSで「普段どんな発言をしている者がどんなコメントをしているのか」気になるものを簡単にサンプリング調査していた。我ながら趣味が悪いが、リアリティーショーをリアルタイムで追う場合はこんな楽しみ方もある。

バチェロレッテの行動や選択はどこか我々にとっても試金石のようなところがある。まっすぐな萌子氏の存在はまるで私達をも映す鏡のようだ。
当て馬説はMCの二人がミスリードしたことも大きいが、「悪女萌子説」を確信していた少数派を除けば、皆一様に不安を感じ、結果を見届けたときに自分の心を守れるよう、痛みに保険をかけているようなコメントが多く見られた。

皆、人を信じる力が弱まっているのではないだろうか。そして「人を信じる」自分自身を信じる力をも失いつつあるのではないか。

今回の結果について、私自身は「福田萌子氏はこういう決断をしたんだな」という以外の感想が特にない。彼女の考え方から多く学ばせてもらったし、勇気ももらえた。リアリティーショーの枠を超えた凄いものを見させてもらったという思いがある。

結果に対して、ルール彼女の人格などの属性に言及したり、怒りに変換した方も多くいたように思う。もしあなたがそうなら、きっとあなたの感受性がとても豊かで何かを感じているはずなので、怒りに簡単にまとめてしまわずに、解像度をあげて心の変化を丁寧に一緒に探っていけたらと思う。

怒りは傷から変異することが多い。きっと多くの者が幸せで笑顔の溢れるエンディングを見たかったに違いない。不器用な黄皓氏や、まっすぐな杉田氏にシンパシーや応援の気持ちを寄せていたのかもしれない。それはすごく素敵なことだと思う。短い映像のなかで彼らの魅力に気づき寄り添えるのは、あなたの優しさや温かさから来ていると思う。

きっと誰もが「彼女が幸せになる物語」を夢見ていた。ずっと苦しそうにしていた彼女のパキッとした笑顔を最後に見たかった。その文脈から外れたときに、悲しくて裏切られたような気がしたのかもしれないし、失望したのかもしれない。

ここでどうか一度立ち止まってほしい。自分の文脈で彼女を捉えるということは、彼女を消費するということだ。

こんなことを言う私も実は同じだ。書き手には必ず視点がある。自分の見える狭い範囲で登場人物を観測し、勝手なことを書き連ねているに過ぎない。私自身も彼女を消費している一人だ。ただひとつ違うとすれば、私にはその自覚がある。そのいびつさを理解しているから、彼女の選択には一切言及しない。彼女の人生について、彼女以上によりよい選択ができる者もいないし、選択に責任を持てる人間もいない。彼女に対する尊敬があるから選択を尊重し支持する。それだけだ。

どうかつまらない怒りやモヤモヤにばかりフォーカスせずに、それを引き起こしている「彼女に幸せになってほしかった」「彼らにとっていい結果であってほしかった」「誰にも泣いてほしくなかった」「彼女に自分を追い詰めるような選択をしてほしくなかった」そういう自分の美しい願いに焦点を当ててみてほしい。あなたはきっとただ少し悲しかっただけだ。優しいあなたは彼らの痛みを自分のことのように感じ、同じように傷ついてしまっただけだ。腹の中からたぎる怒りをただぶつけるような矮小な人間ではないはずだ。

共感力は素晴らしい能力だが、それが強い者は自他の境界が甘くなることがある。それが誰の悲しみで、誰の痛みであったか、そして、それさえも自分の想像に過ぎないことを落ち着いたら見つめてみてほしい。他人の人生を生きてはいけない。

「本を表紙で判断しないで」とマラカイ氏は言っていた。あれはきっと物語を閉じた裏表紙についても同じことだ。

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※画像は全て、Amazonプライム・ビデオ公式とWarner Bros. International Television Productionより拝借しています。

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