リアリティショー

バチェロレッテ #05-last

ネタバレ

最果ての当ブログもバチェロレッテ・バブルがそろそろ落ち着いてきた感がある。このブログは実に1年ぶりの更新だった。当ブログは2018に開設したようだが、多分唐突に何か他の作業に没入してしまい、そのまま放置していたんだろうと思う。さっぱり覚えていない。去年バチェラー3と映画のレビューを同じように1年ぶりに更新している。本来割とそういうペースだ。

ブログを始めたのは起業しようと燃えていた頃で、そのリスクヘッジと趣味を兼ねていたように思う。本のレビューもそういう系が多い。初期は覚えたてのWEB編集とアフィリエイトを頑張っている感じで、読み返すと色が多くてチカチカしていたり、時間が経ちすぎて「誰だこいつ」と思ったりもする。思考の軸のようなものは変わっていないが、しばらく放置している間に、DaiGoや堀江氏も老害化し、朝の瞑想は二度寝に変わり、ぬか床はこの夏に死んだ。(身体には本当にいい。鬱は腸からという話もあるので傾向がある方には日照時間が減って寒くなる時期は特におすすめ。そしてアボカドは絶対に固いやつだ)

このように心底ズボラーな私が、どうしようもなくブログを更新した理由は福田萌子氏と杉田陽平氏の存在に他ならない。

epi01のカクテルパーティーで2人のやり取りを見たときに「こりゃ凄い!」と思った。草原のツチノコと湖のネッシーが出会ってしまったような感じだ。そして何より、内向型の、それも外れ値にいるような2人が主役をやっているという状況にめちゃくちゃ興奮してしまった。こんな事件をテレビで観たことは一度もない。

今更という感じだが、私はMBTIでINTJ型というぐらい特に内向性が強い。MBTI自体は科学的根拠が不十分であり、現在は統計学を駆使したBIG5という特性分類が最も支持されている。どちらでも似たような結果になるので、このタグで私を探す人がいるかもしれないと標榜している。気になる方は、BIG5で内・外向性を始めとする各要素をチェックしてみてほしい。

そんな私は、誤解を恐れずに言えば萌子氏との共通点が多く、レビュー#03はほぼ自己紹介だ。ただ、私は彼女の100倍愛想が悪く、配慮に欠け、夜中にアイスを食ったりもする。私は自分と同じような人間にこれまで現実世界で出会ったことがなく、生きづらさは相当なもので、自分のことを外れ値だと認識していた。そんな私が更に彼女を外れ値だと思った感受性が圧倒的に凄すぎる。私など到底及ばない。私がこれほど生きづらかったのに、彼女は如何ほどだったかと正直ゾッとした。

彼女の豊かな出自という一点の属性のみに注目して、「恵まれている」とシンプルに考えているアホがいるが、内向型の生きづらさはそういうレベルのものではない。そもそも「リッチなら辛くない」という浅はかな思考は一体どこから来るのか。その立場でなければ分からないことは多い。きっと彼女が多くの場面でそんなアホ共に「リッチならこれぐらい辛くないでしょ」という対応をされてきているだろうことは容易に想像できる。属性が恵まれている者は、それが容姿であれ才能であれ、好意を押し付けられるようなことも多いが、「いつも得してるんだから、これぐらいいいでしょ」とちょこまか無遠慮に割り引かれた対応をされることもまた多い。

そして、杉田氏の感性には本当に感動した。芸術家の感性とはこれほどのものなのかと、初めて生きている表現者を間近で見られたので、楽しくてしょうがなかった。

私を突き動かしたのは、この2人の奇跡のようなキャスティングと、もうひとつ、Amazon制作陣、いや「企画者」の意図だ。

自分の言葉で話す萌子氏を見て、ひと目でピンと来た。彼女を口説き落とした企画者の意図、それは女性のエンパワメントだ。そしてどこまで目測していたのかは分からないが、内向型をはじめとするマイノリティのエンパワメントにまで及んでいる。多分、相当気合の入った方が間に入っている。これは誰かがやらなければならなかった。そして、今回萌子氏は相当の覚悟と自己犠牲的な使命感を持って逆風の先頭に立っており、シンプルに一人にしてはいけないと思った。

私は正直、この日本で今更オセロをひっくり返そうとする人間が現れるとは思っていなかった。#Kutooや#Metooも一定理解はできるが、どこか本質を外したような議論が多く、この小競り合いのまま埋没していくような虚しさがあり、本来はもっと大きな包摂的なムーブメントが必要だと思っていた。私自身はどちらかというと日本脱出を選ぶ側の人間だが、そんな身勝手な頬をパチンと弾かれたような気がして、結果、私はその意図に積極的に加担した。

具体的に種明かしをすると、私のレビューは全てフェミニズムと内向型に焦点を当てた。もちろんそれが最重要だと考えてのことではあるが、萌子氏に興味を持つ人間が多く出るだろうことを利用した。男性のどの部分をチェックしておくべきなのかを伝えたかった。そして、内向型のことを外向型の方に知って欲しかったし、また自覚がない内向型の方に、その概念を知って一息ついてほしかったというエゴがある。

その重要なトピックを目立たさせるために、実はフェミニズムの説明として描きやすかった黄皓氏には尊い犠牲を払ってもらった。彼の生い立ちを想像したとき、国籍とアイデンティティは無視できず、彼の繊細さとは密接な関係があるだろうが、画面から伝わりづらいのをいいことに、その部分を私は意図的に描いていない。

そしてついでに白状すれば、表層的なタグで勝負し、導入時に強く維持に弱い恋愛を重ねたのは、他でもない私自身だ。過去のクズな自分に往復ビンタするような気持ちで黄皓氏を描いている。すまんが割と楽しかった。

また、こんなことも思う。私自身が仮に黄皓氏の立場に男性として生まれていたら、あの程度では済まないだろう。1000倍不遜で傲慢な人間になっていただろうと思う。男性は今、当たり前に享受していた多くのことを自覚し、深く学び内省をしなければならないが、私はたまたま女性に生まれているから、実はそれと対決せずに済んでいるという側面もある。

このようにジェンダーの問題は、男vs女のような構図ではなく、お互いがお互いの立場を想像しながら包摂的に取り組まなければならない。

仮に「明日から誕生月が奇数の人は強制的に『男』で、偶数の人は『女』です。給与・役職・出産・子育て・感情労働の配置転換が行われます。本年度のガラガラポンは0時施行でーす」みたいな世界観があったらどうだろうか。現代日本のジェンダーギャップにあなたは沈黙していられるだろうか。何か感じるものがあったら、搾取や分断は統治とどのような関係があるか少し考えてみてほしい。

リアリティショーのこれから

こんな感じで私はバチェロレッテを見守っていたが、最終回を受けてのコメントやレビューの数々にはやはり落胆が大きかった。「内向型を理解してもらえないあるあるだな…」と物分りの良いフリをして自分を慰めながらも、やはり「MCがもっと成熟していたら・・・」と思わずにはいられなかった。

当たり前だが、メディアの世界は共感とノリがお金を産むビジネスであり、役者を除くと外向型が圧倒的に多い。コロナ危機のさなかに俳優の自死が増えているのも決して無関係ではない。今回のMC3人の代わりに誰がいたかというと、私は誰も思いつかない。日本は本当に人材不足が深刻だ。バチェロレッテ企画者の意図を最後に描ききれなかったのは、ここが弱かったからだと思うと、やはり惜しい。

今後のバチェラー&バチェロレッテを考えたとき、私はレビューを書けないし、書かないだろうと思う。萌子氏&杉田氏以上に興味を持てる人物がもう現れないだろう。それぐらい彼らは特別だった。

言っても詮無いことだが、多くの人間が萌子氏を特別な存在だと理解していたはずなのに、彼女の最終判断に関しては「特別な人間がする決断」とは考えずに、「私ならこうする、フツーならこうする」という自分自身や世間(笑)のジョーシキテキな決断とやらに照らし合わせて感想を抱いていることが純粋に不思議だ。そのダブルスタンダード多様性への己の無理解ぶりに本気で気づいていないのだろうか。そう、私は今真顔だ。


今後のリアリティショーを考えてみたとき、中心人物の「成熟」と「言語化能力」は重要なファクターになるのではないだろうか。

主役が成熟していないと、他の登場人物が陰影をもって浮き上がってこない。そして、現在各メディアが奪い合うのは「可処分時間」だ。これは言語化能力と密接に関係してくるだろう。バチェロレッテの編集はとても丁寧に仕上がっていて、特にコメントと映像、そして音楽の重ね具合が秀逸だったと思う。確固たる意図をもって表現したい物語が編まれていた。

バチェロレッテ内で多用されていた、萌子氏や杉田氏のコメントに対して、その表情をつけずに別のシーンの映像を重ねる手法というのは、しっかりとした「言語化」なくしてはできないのではないだろうか。言語化能力が低い人物のコメントを拾うには、どうしても表情を映さなければならなくなる。さらに心を表す視線の動きは数秒かかってくる。言語化による圧縮率は無視できず、尺に対する有利・不利が今後は出てきそうだ。

バチェラーシリーズは、また恋愛ゲームものに戻ってしまうのだろうか。だとしたら残念だし、大人になっても廃校になった校庭でいつまでも遊び続けるようなグロテスクさがある。本当に人間でゲームをしたいか。それはそんなに楽しいのか。我々はいつまでも砂糖のように加工された嗜好品を貪るように味わい続けたいのか。

私はやはり人間同士が真摯に向き合う姿をまた見たい。恋をしようが結婚しようが、そんな結果はどうでもいい。恋に限定せず、ブラック校則と闘う高校生を追うなど、政治性や社会性を帯びた何かうまい仕掛けをぜひ考え出してほしい。

そして、動画を1倍速でしっかりと観るのは本当に久しぶりだった。Amazonプライム・ビデオはオプションがないので仕方がないこともあったが、たまにテレビをつけても1倍速ではまず見ない。現在私が利用しているコンテンツはラジオ的に耳を中心に使うものが多くなってきた。人間に最後まで残るのは聴覚だとも言われている。今後視線を奪い続けるような間延びした薄味の動画コンテンツは廃れていくかもしれない。もはや表情を映して、ノリと空気を共有していればいいだけのものではなくなっていくだろう。

あとがき

どなたかが指摘されていた、杉田氏の絵とタイタニックの劇中画との相似性も、偶然か必然かメッセージ性を感じる。穿ち過ぎかもしれないが、今まさに崩れ落ちようとしてる我々のプラットフォームについての壮大なメタファーのような気さえしてくる。

どこまでが意図されたもので仕組まれたものかはわからない。わからないものはわからないままで、だがこれは、そういうパッケージの作品だったのではないだろうかとかすかに感じる私がいる。仕掛け人の真意や事実が何であれ、今私がそう感じていることが私自身にとって意味がある。

未完結の映像エピソードを前に、私達は即座に美しいものを見つけ、感じ、考え始めた。その感染こそが芸術の本質そのものだ。杉田氏なのか、あるいは企画者・制作陣の誰かなのか、何か美しいものを表現することで、この思考の連鎖とうねりを作りたかったんじゃないだろうか。

そして私は明らかにこれらの表現に触発されて、今まさに自分の表現をしている。「ああ、表現ってこういうことなんだな。感染していくんだな」そう心から感じている。

インターネットの片隅でコソコソとやっていたので誰にもバレていないと思うが、本ブログは1年に1回消える時期がある。今年もサーバ更新料をスルーして酒を買い、呑気に鼻歌を歌っていた。ちょうど暖かくなるいい季節なのだ。

そんな私が、いつになくやたら書いている。そして現在、この記事以外に派生トピックやその他記事を並行で作業しており、しばらくこの回転数が落ちそうにない。自己完結しがちなため脳内には言語未満の「自分さえ分かればいい」概念的なふわふわで格納していたりするが、今回はいつになく真意が伝わるように客観視チェックを通常より細かく入れながら書いている。飽きもせずそんなことをやっている自分は、ちょっと「お前誰」感がある。本来私はずっと呑んで寝ていたい。感染の力は凄い。


今後は、しばらく派生トピックの記事を書く予定なので、興味のある方は「バチェロレッテ」タグで当ブログ内を検索していただけたら幸いです。Twitterでの「#バチェロレッテ」タグの紐付けは、今回で一度クローズしようと思います。長い間お付き合いありがとうございました。

※画像は全て、Amazonプライム・ビデオ公式とWarner Bros. International Television Productionより拝借しています。