リアリティショー

言葉はどこから来るのか/自分の感受性くらい

はじめに

バチェロレッテを見ながら、また、本ブログのレビューについての感想を拝見しながら、ずっと考えていたことがある。「言葉はどこから来るのか」というテーマだ。とりわけ「言語化と表現」について、頂戴した過分なコメントには恐縮するとともに、「本来誰にでもできることなのになぁ」と寂しく感じてもいた。

今回伝えていきたいのは、「感受性」「語彙と思考」「『自分の』言語の獲得」「思考の軸」といったテーマだ。これらは密接に絡み合ったテーマであるため、順を追った説明が少し難しい。故に、ここはひとつ散漫なまま書いてみたいと思う。あなたを色んなトピックに引き連れ回し、少しグラングランさせるかもしれないが、これが実際私の脳内でいつも起こっていることなので、たまには一緒にうんざりしてくれたらと思う。

感じることを避けてはいないか

私自身は、言葉に対する執着は強かったが、例えば文学作品を読み耽るというような特別なことはしたことがない。生まれた時から(あるいは生まれる前から)、私には家族という自動本読み機が4台あった。最初の言葉は「読み聞かせ」から獲得している。実際に文字の概念をちゃんと理解したのは小学校に入ってからだった。家族が本を見ていることは知っていたが、私にとって本は聞くものであったため、文字というものを読んでいるとは思いもよらず心底驚いた。ずっと文字も挿絵の一部だと思い、食い入るように見つめ想像していた。末っ子はたいていアホだ。知らんけど。

父親は小学校教諭であったが、どうせ習うからと先んじて何かを教えることがなかった。また母親は、私が誤解して覚えている単語があっても、「いずれ意味が分かるから」と放置して面白がっていたらしい。文字を覚えて以降も、意外と辞書を引くという習慣がない(今は流石にたまに使う)。聞けば父親は事細かに教えてくれたが(長い)、母親は対照的に「どういう意味だと思う?」と問いかけ答えを与えてくれなかった。そのため私は、文脈の中から意味を推察する、あるいは、疑問を抱えたまま次の数行を読むという妙な小技を獲得した。これはそのまま、不確定要素があっても、数パターンの仮定を元に次の情報を取りに行くという、現在の謎の行動力にも繋がっている。

そして、この程度のことは、現代文や古文・漢文のテストで皆経験しているのではないだろうかと思うのだ。そういう意味で、程度の差はあれ、やはり特別な体験ではないだろうと思う。だからこそ「言語化」にこれほど言及されるのが不思議でずっと考えているうちに、ひとつの仮説に到達した。それは、そもそも感じることを避けているのではないかということだ。

自分の心の状態は写真に撮ることができない。「言葉」への根源的な欲求は、事象や自分の心を把握したい、他者へ説明したい、より深く知りたいというところではないだろうか。この内発的な欲求が何かを学ばせ「語彙」や「思考」の獲得に繋がる。しかしながら、その欲求以前の段階で、自己防衛的に、あるいは戦略的に「感じること」自体を封じているのではないか、というのが私の推論だ。

同質性の高い日本でサバイヴするには、共感による同調が重要となってくることに異論がある者はいないだろう。現在、多くの者が多様性を認めない日本社会の生きづらさについて語り、変革の必要性を訴えている。とは言え、現実問題として自分の身に置き換えた時には、隣人に堂々と「NO」とも言いづらい。そんな日常というところではないだろうか。

実はこれをシラッとやってしまうのが、私のような内向性の強い「空気読まない」層だ。私は自分が「正しい」と思わないことは認めないし、しない。誤解しないでいただきたいが、絶対の正義があり、自分が常に正しいと思っているわけではない。また、私が特段強いわけでも、正しくあろうと意識高くあるわけでもない。ご存知のように、私は私以外に従えない単なるズボラだ。

内向性の強い私は、感じずにはいられない。理不尽や不条理に直面したとき、乱暴な数の論理や場を掌握するパワーに迎合することができない。生きづらさ故に「善なるもの、正義、美しさ」といったものに、どうしようもなく惹かれる。「善くあろう、正しくあろう」と意識を高く保っているというよりは、その選択肢以外を削ぎ落とした設計がされているように、自分について認識することが多い。つまり、「十二国記(小野不由美)」の麒麟が王以外に頭を下げられないように、私も自分が「是」と思うもの以外に応えることができない。それはもう、そういう機能として私に息づいていて、常に「共感」よりも絶対的に優先させられる。

ここだろうと思う。適度に器用で優しい人間は、「共感」を大切にし自分の「心」を殺してでも相手や仲間を優先する。短期的には、相手に嫌われることもなく場をやり過ごせるため、有効であると考える者が多いかもしれないが、あえて言っておきたい。そんなことをしていると大切な己の心を損ね、長期的には自分を失う。心の中だけは何を感じていてもいいのだ。

具体的な対策方法としては、私のような一匹狼は向き不向きがあるし、どちらかと言うと追い立てられて行き着いた結果でもあるのでおすすめしない。まずできることは、必ず自他の境界をしっかりと保ち、相手への「共感」と「理解」、そして「課題」を切り離し区別することだ。このあたりのことはアドラー心理学が詳しい。第一人者でもある岸見先生の動画を記事の最後に貼っておくので、興味のある方はこの機会に少し触れてみてほしい。

誰かの「怒り」や「悲しみ」を真横で観測したとき、共感が短期的に激情を緩和し、人を安らかにすることもある。が、同時に意図的に状況を俯瞰することもトライしてみてほしい。有効なのが「実況中継」だ。「彼は怒りで顔を真っ赤にしている」「あの一言があってから顔色が変わった」「どうやらあの論点が気になっているらしい」などと、感情と課題を切り離していく。その上で、相手の感情に巻き込まれず、事実だけを見つめて、自分自身の感情と思考で心を決めるのだ。それを表明するかどうかは、無理に自分を追い詰める必要もないし、まぁ時々で柔軟に選べばよいと思う。いきなり矢面に立ってもサバイヴできない。

感受性を明け渡し「力を持つ者に合わせていればいい」という思考では、自分の心をいつになっても理解できない。何よりも大切な自分自身がどのように感じ、考えているのかを無視していることになる。そのように振る舞うとき、わずかにでも自分の中に苦しさやしんどさ、虚しさがないだろうか。大切なあなた自身を、他ならぬあなたが、そのように軽々しく扱うことがあってはならない。繰り返すが、自分が感じきることと、それを表現するかどうかは別のことで、意思表明のタイミングは自分で選べる。このステップを意識していてほしい。あなたが器用なら、なおさらうまくやる方法はある。

今ここで、ひとつ詩を共有したい。

「自分の感受性くらい」茨木のり子

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

茨木のり子詩集より)

これは、30歳を過ぎた頃に趣味を通じて出会った友人から贈られた詩だ。出会って間もない彼女は、唐突に詩集を私に手渡し、この詩には付箋が貼ってあった。正直なところ、当時は特に感じ入ることがなかった。全般的に非常に耳に痛い内容となっており、多少の自省はしたが、それだけだった。本当の意味で私に届いたのは、数年後だ。10年はかかっていなかったかと思う。

当時も相変わらず生きづらさを感じていたが、そんな私を遥かに凌ぐ、自分も周りも傷つけずにはいられない嵐のような感受性を持つ彼女との出会いは、刺激に満ちたものであると同時に、色々なことを痛みとともに学ばされた。彼女は私の弱さをピタリと指摘する鋭さを持ちながらも、虎の子がじゃれるように私に甘えた。彼女のそれまでの孤独が相当深かったのだろうと思う。全身から彼女の喜びが伝わってきて温かく楽しいが苦しい、そんな日々。私も無邪気な虎の子には触れていたいが、爪と牙に耐えられない。そんな感じだ。色々な思いや出来事があり現在は距離を置いているが、今でも私は彼女の存在を愛し尊敬している。

別れから数年後に、そんな彼女が贈ってくれた詩が、ふと「こういう意味だったのか」と分かった。彼女は、私自身を特別だと信じ、その感受性をどうあっても守り抜けと言っていたのだと、ようやく分かった。私自身が私を信じるずっと前に、彼女が先に私を信じてくれていた。この時の感動は言葉にしづらい。そんなことが起こり得るのかと、そして、そんな彼女の存在をむざむざ手放してしまったのかと、喜びとともに未熟さを呪い涙が止まらなかった。そんなふうに自分の感性を愛されたことが、誰かに存在を認められたことが私にはなかった。

今ここで、あなたに詩とともに贈りたい。苦しくとも、その感受性を絶対に手放してはならない。感受性は道標だ。それがなければ、あなたは必要なものに巡り会えなくなる。そして、いつか必ずあなたを支える大切な軸になり、何よりも貴重な財産であったと知ることになる。

語彙と思考

語彙と思考は密接な関係がある。事象を細かく分類・分析して思考するには、それなりに単語数が必要となってくる。思考の深さと語彙の多さはやはり比例していく。

こんな例がある。私自身がカナダで語学留学(というプラプラ)をしていた頃だ。公教育とその後放置していた英語力で見切り発車的に飛び込んでいるが、アホはアホなりに決心していた。「日本語で思考しない」だ。日本語のメールや電話をする時以外は全て英語で思考すると決めていた。(厳密に実行できたかはノーコメントだ)そのうち、なぜか夢の中では日本の友人がフランス語を話し出すから不思議だ。「何言ってるのか分かんないよ!」とこっちは英語でよく叫んでいた。訳がわからない。(私にはフランス語の素養は一切ない。ただ、カナダではいずれも公用語で音だけはよく耳にする)

その時感じていたのは、夢を含む頭のなかを吹き荒れる思考が、かなりマシになっていたということだ。英語の語彙が圧倒的に足りていない。そんな私の脳内は、何年かぶりに少し静けさが戻ってきていた。これはすなわち、語彙不足による思考力の低下が証明されたようなものだった。逆説的に言えば、脳内グルグル系で、もうこの瞬間嵐に耐えられないという状態の方は、是非はともかく、言語野というOSをすっぽり置き換えることで一時の休息を得られる可能性はある。できれば、その言語圏へ移動するのが望ましいだろう。日本語の聞こえない他文化圏に入り込み、多くの刺激を受けることだけでも実はかなり救われる。雑音の多い日本はやはりかなり生きづらい。

では、思考を深めていくために、どのように語彙を獲得していくかということだが、私自身が意図的にそれをしたことがないので、実は「好きなもの見るか読めば」という回答しか持ち合わせていない。好きなことをしていれば勝手に増えていくものなので、気になるものを手にとってみればいいと思う。多少でも感動がなければ、その言葉は自分のものにならず息づかないので、心を動かす「人、旅、本(映画などの文化etc)」を中心に触れていれば十分だと思う。

あえてアドバイス的なことを言うなら、モヤモヤしているときは本屋に行き、惹かれるタイトルを手にすることで自分の心を多少知ることができるし、エロゲ・ソシャゲ(パチンコは論外)などに手を出しているなら、まぁ否定はしないが、もっとエロい表現や冒険は、実は小説の中にあるよ、とだけ囁いておきたい。私は全く読まなくなる時期も定期的にあるけれど、やっぱり本はいい。例えば当ブログのバチェロレッテレビューは長い回で8,000字を超えている。これは原稿用紙にキツキツで20枚だ。一連のレビューを通しで読めるなら、短編の小説は一瞬で読めると思う。より表現が洗練されているし、セリフも行間もあって読みやすい。あまり本や活字に縁がなかった方は、食わず嫌いの可能性が高いので、図書館で本屋大賞など読みやすいところから手にとってみるのはどうだろうか。

自分の言葉

私は昔「あなたは自分の言葉でしゃべるね」ということを言われたことがある。「何のこっちゃ」と当時は思った。意味が分からない。自分の言葉以外に何があるのか。いやまぁ、全ての言葉は借り物というか、先人からのパクリで、ある意味盗品コレクションを並べているのが文章とも言えるが・・・などと「わけわからん話」としてずっと放置していた。

しかし、今になって思うことがある。これは、自分の歩いた軌跡が語らせる言葉という意味ではなかっただろうか。大切なことなので丁寧に伝えていきたい。

例えば、「私が語ることに何の意味があるのか」そう思うことはないだろうか。自分の思考ごとカバーするような頭のいい人も、過去の偉人もいっぱいいて、その足元にも及ばない自分が語る必要性を見出だせない。私もよくこのように思う。しょんぼりする。あらゆる知識について、興味の赴くまま味見程度に触れているが、実力は全て初学者未満で、専門的に学んでいる者には到底及ばない。社会学や哲学、心理学ではもっと丁寧に紐解いて解説されていることを、あえて無学な私が語ることに意味があるのか、むしろ害悪ではないのかと感じることさえある。ただ、やはり多少なりとも意味があろうとも思い直す。それはこういうことだ。

私が今いる場所は、偉人がかつて一瞬で通り過ぎた場所でもあろうが、かつて私がいた迷いの中にいる方がこれから通ろうとする場所でもある。つまり、複数の世界を知っている私は、双方の状態についてのバイリンガルであると言える。

思索の旅は、実際の旅とは異なり、誰かと同じ時空で同時に邂逅することが少ない。そのため、私はあなたと同じ瞬間に同じ場所にはいないが、異なる時間軸で近くを彷徨ってもいる。

かつてその近くを通った私は、美味しい水の飲める場所を書き記して残しておくことができるし、これから向かう予定の街や大切な星の位置を複数指し示しておくことができる。これは孤独な旅のようで、そうではない。時間のズレがあるなかで、多様な者があらゆる情報を持ち寄り、間接的に交信してはまた、自分の旅に戻っていく。私達はそんな知的ネットワークの中を生きている。そこで、あなただけが繋げる人もきっといる。

ひとまず思索の軸で示したが、他にカルチャーという軸もある。例えば、映画や小説・コミック、オペラ等の舞台、他の芸術作品や料理など・・・色々な分野を繋ぐ、カルチャーバイリンガルという立ち位置もある。同じ作品で感動できる人間同士は、同じ言葉を話す事が多い。この出会いがさらに興味の幅を広げ、旅の可能性を広げる。もはや何がきっかけでフォローし始めたか分からない、そんな関係がSNSには溢れていることだろう。

人生を丁寧に紐解いた時、全く同じ経験をしている者は誰もいない。あなたは、あなただけの言葉を既に持っている。恋に落ちて初めて「これが恋だ」と分かるように、時がくれば必ず分かる。あなただけが見つける特別な人がいて、あなただけが語りかけたい人に出会える。その時に、自分の言葉を意識せずとも話していることに後から気づくだろう。

思考の軸

「思考の軸」は抽象的で説明が難しい。私の中での定義は、何か1本ピーンと通っているものというよりは、いつまでも未熟で、肉付けを足したり引いたりしながら、ずっと作り変え磨いていくようなものと位置づけている。

例えば、経験を通して「あ、これはこういうことか」と分かるような瞬間があると思う。そのような気付きや、学びを組み合わせて「思考の軸」として大切に扱っている。

そして私は、その軸を全てぶっ壊して作り直すことも厭わない。これはかつて、留学などを通して人生観が根底から揺らいだ経験からも来ているし、また、人生が終わるその時まで、ずっと未熟で暫定であると自覚しているからでもある。人はずっと移ろい続ける。そのため、あえて自ら固定しすぎず、柔軟性を保っておけるように遊びを許している。ズボラーの私には造作もないことだ。

では、軸の基礎となる思考の塊といったようなものは、いつ生まれてくるのだろうか。やはりある日突然、自分の中からふっと湧き上がってくるような事が多い。唐突に「分かる」。この感覚は30代を半ば過ぎた頃から頻発するようになった。点と点が繋がり始め、意味を持ち始めた。そして、40代を迎えてより顕著になった。若い頃は体験することが少ないので、何のための経験か意味も見出だせず苦しいだろうし、何の慰めにもならないと思うが、やはり無意味ではないので、あなたに悲劇が起きたなら、感じ尽くして熟成を待ってほしい。必ず伏線を回収する時が来る。早すぎる段階で早々と損切りしてはもったいない。

思考の軸というのは、誰か偉人の本を読んで、それを完コピするというような訳にはいかない。それらを情報として仕入れてから、自分の頭で思考し熟成させ、完全に腹落ちしなければ、自らの血肉には成りえない。

あらゆる感情・経験・知識から仕入れた、何か美しく惹かれるような「概念的なふわふわ」のエッセンスがあなたの中にもたくさんあることだろう。それはまだ言葉や輪郭を持っていないかもしれない。だが、それこそが大切だ。桜の花びらが幾重にも重なって、ようやく淡い色を発するように、いつかきっと輪郭と奥行きをもってあなたの中に息づく。今はただ、感じ尽くして溜めていけばいい。

そして、自分の心を見つめるために「言葉」が必要であるということに少し矛盾するようだが、この「はっきりとは分からないふわふわ」のままで放置(熟成)させることも意識していてほしい。気になることを放置するのは、ズボラ2級を習得していない方には多少ストレスになるかもしれないが、わからないことに対して、未熟な経験のままで、言葉という輪郭を与え姿をもたせるのは少しリスクがある。順を追って説明していきたい。

絵画や音楽などの表現が、周囲の空気ごと纏うのに比べて、言葉はピンポイントで指し示すような表現になることが多い。そのため刺さる時は刺さるが、規定するべき段階に到達していないのに言葉を無理やり当てはめてしまうと、本質からズレたまま固定され、再検証や修正されにくいという問題点もある。

私も自分の気持ちがいつも分かるわけではないし、すごく惹かれる言説を前に、ごく一部の何かが気になり、どうにもすっきり腹落ちしないが、明確な反論もない、そんな事態はしょっちゅうだ。ある程度考えて分からないことは、堂々と棚上げする。数年放置していたら、ある時似た事象に行き当たり、再検証するようなことがよくある。適当でいい。

悲しい気持ちになったとき、説明がつかないこともある。言葉にならないことも多い。そんな経験がいくつか蓄積されたとき、「ああ、これはあの時の気持ちに似ている」と自分の中で符号が揃うことがある。その繰り返しで、ようやく自分がどのような事に傷ついていたのか理解し、事前・事後の対策がとれるように成長していく。やはりまず「感じて」しっかりとサンプルを積み上げなければ、傷は根本的には癒やせず、言語にもならない。

ややこしいが、感じきること≒思考することの重要性と、無理に言葉を当てはめて確定させてしまうことのリスクを知っていてほしい。「言葉にならない」もある時点の気持ちを表す立派な言葉だ。

まとめ

抽象的な表現が続いたので、最後に分かりやすいように少し具体的な話をしておきたい。

何か嫌なことがあったとき、親友をゴミ箱代わりに愚痴ったり、さっさとカラオケに行ったり、とりあえず身体を重ねることでボノボのように情緒を安定させようとする心の動きがある。(ボノボ=チンパンジー属は、強い緊張状態の打破のために、とりあえず性交渉する)

もしあなたが、そうした行動を選びがちならば、思わず痛みから目をそらしてしまうほど感受性が強いと言える。そんなあなたに、このような提言をするのは心が痛むが、やはり、あなたのためには5分だけでも自分と対峙したほうが良い。その方が回復が早くなり、学びも深くなるからだ。とりあえず、お気に入りのハーゲンダッツフレーバーを冷凍庫から取り出し、柔らかくなるまででいいので、心を見つめてみるのはどうだろうか。

あなたは、他人に向けるのと同程度に悲しむ自分にも寄り添っているだろうか。本当の意味で寄り添えるのは、本人だけだ。あなたが真っ先にその役を放棄してはいけない。私はあなたの痛みを想像することはできるかもしれないが、本当の意味でそれを実感として理解するにはどうしても至らない。自分だけが、自分の傷を知っている。具体的な対処方法は、やはり実況中継だ。少しずつ、ほんのちょっとでも、自分の心と事象を切り離していく。しんどくなったら、甘いものを含んでその日は終わりだ。聞きたい友人の声や音を聞き、眠りで一度リセットをかける。いきなりパキッと心が晴れるわけでもないが、悲しみは少しずつ薄くなる。時間を味方につけて、いつか言葉になるまで預かってもらおう。

さて、散漫なトピックに次々と連れ回してしまったが、大雑把にだが締めておこうと思う。あなた自身とあなたの感受性を守るために、(1)何かを強く知覚したときは感じ尽くし、できそうなところまで言葉を与える。(2)そして、実況中継しながら、自分の状態や事象を把握し、感情との切り離しを試み思考する。(3)苦しければ無理はしなくていい。できるところまで、適当でいい。一通り終わったらリラックスして好きなことをする。これはもしかしたら自然にできるようになるまで数年かかるかもしれないが、人生は長い。気楽に行こう。

岸見一郎氏「嫌われる勇気」講演(2018)