リアリティショー

Doing/Being・・・そしてWant

はじめに

最近このような切り口がよく話題になっていることをご存知だろうか。「何を為す・為したか(Doing)」と「どうあるか・ありたいか(Being)」ということだ。そして「どうありたいか」は自分との深い対話に答えた「~したい(want)」から必ず始まる。

どちらも大切なテーマではあるが、「為す」ことだけに囚われていると、時に人生で迷子になってしまうことがある。「為す」ことはあくまで短期的な目標や、人生を俯瞰した場合には視野狭窄的な到達点ともなりがちであり、人生を設計する上では長期的な視座「どうありたい」こそが重要となってくる。今日はそんなことを伝えていきたい。

これは、バチェロレッテ・epi03の藤井氏&萌子氏によるガチンコ対決時のテーマで、本来あのレビューに載せたかったが、テーマ性が大きく話が逸れすぎるため見送った。レビュー#04で感情の整理がつき離脱する層がほとんどだと思っていたので、そこまでに滑り込ませたかったが手が回らず、あのシーンで心がざわつき、萌子氏による「攻撃」と捉えた層にとって最も必要な情報であったが、力不足でこの時期となってしまった。

バチェロレッテ(恋愛リアリティショー)未視聴者のために場面を説明しておくと、このようなことがあった。

藤井氏(男性)が萌子氏(女性)と対話デートをしていた。その時、藤井氏から「僕は友達多いと思っているけど、相手はどう思っているか分からない。相手はそうじゃないよって。(言われる)」「明るい性格が、うるさいのが嫌いとか言う人もいる。自分がこういう藤井だと分かっていて付き合っている人もいれば、分かって付き合っていない人もいる」という発言があり、それを受けて萌子氏が「藤井さんのなりたい自分、自分の理想像ってどこにあるの?」と質問をしている。

ここで補足説明のために遠回りだが、少し私の話をしようと思う。私はとても飽き性で、転職経験もあるし、フラフラ海外をうろついていたり、ギャップイヤーも数回経験している。趣味にしてみても、絶対コレというひとつもなければ、平気で数年単位で休む。一番ハマったのはスキューバダイビングとボルダリングだが、いずれも今は距離を置いていて、最近はクロスバイクをママチャリのように使い倒している。

変わりどころでは、武道に触れたいと思い立って唐突に薙刀(なぎなた)を始めたことがあり、はじめて間もない頃に一度だけ演舞の試合に出してもらったことがあるが、その際に打ち合い試合を観て、自分のなかに闘争心というものがまるでなく「これはできないな」と思い一瞬で放り出した。そう言えば、スポーツは全てタイムで競うような個人競技しか経験しておらず、鈍くさいので試合に出ることもなければ、いつも昨日の自分としか比較していなかったなぁなんて思ったりした。早生まれで身体の成長が同級生より遅かったことや、末っ子長女であるために体力的に劣っているのが当然だったため、コンプレックスを抱くこともなく、その点は案外気楽に生きていたのかもしれない。

こんな感じでプラプラしているものだから、たまに知り合いレベルの人から「何をしたいの?」と聞かれることがある。私の本当の友人は、私がふざけきったアホだと知っているので何も聞かず、一緒に踊ってくれる。ボルダリングにハマる人間あるあるだが、この趣味は夢中になってしまうと週3~4回ジムに行き、しかも長時間をそこで過ごすことから、「そんなに登って、どうなりたいの(プロになるでもあるまいし)」ということを未経験者から言われることがある。

こんなとき、私の答えは「楽しいから」以外の答えがない。好きだからやっているだけで、何になりたいなど一切考えることなく没頭している。それをすることで、将来どのような結果に繋がるかを想像することもないし、メリットを探すこともない。(本当に余談だが、ボルダリングは詰将棋の要素があって、しかも武器は個々人のユニークな身体能力と頭脳だけなので、戦略がそれぞれ異なるところが最高に面白い。「自分にとっての最適解」は何かを探しているうちに頭が空っぽになるので、脳内グルグル系の方にもおすすめだ。)

だから「何をしたいのか(Doing)」という問への答えは「心地よいことに囲まれる自分でありたい(Being)」という、少しズレた回答しか持ち合わせていない。やりたいことはコロコロ変わっていくし、別になりたいものはない。私はただ、わたしでありたい。

さて、少し話がふんわりしてきたので、藤井氏のテーマに引き戻したい。
萌子氏の「藤井さんのなりたい自分、自分の理想像ってどこにあるの?」という問をもっと噛み砕いて中学生レベルに落とすと、「藤井さんは本当は相手にどう見られたいの?」ということだが、萌子氏はあの時ここまで低次元の言葉を使っていない。結構藤井氏を高く見積もってたんだなぁと感心したりする。彼女は人をジャッジするまでの滞空時間が非常に長い。できる限り判断を先延ばし、良いところを見ようとする。これは愛と胆力そのものだが、私はまだまだ遠く及ばない。

そして、一分のギャップもなく非常に自然な会話の流れであると思うのだが、この文脈を読み解けず、いきなりやや飛んだトピックへ攻撃を仕掛けたようにこのシーンを受け取った層が一定数いることに、私自身はかなり驚いた。日本人の読解能力、しかも映像付きの話し言葉(より容易)の読み取りがここまでできないとは、マジヤバイ。

それはさておき、さらに危機感を感じたのは「理想像なんて考えたことないよ。いきなり聞かれて答えられるわけない」のコメントだ。そして、このようなコメントが出てしまう原因は、この発言をしている若そうな本人ではなく、全面的にこのような社会を許してきた私達大人側に責任がある。そして、これが本記事のテーマである。前段が長くなったが、丁寧に紐解いていきたい。

問はどこから

「自分の理想像」や「どうありたいか」の問を常に胸に抱えていないことは、「自分」ではなく「他人」と比べてしまい己の人生を歩めなくなる危険性をはらんでいるし、「どうありたいか」ということを自分で理解していないと、友人や本の一冊さえ自分の意思で選び取ることができない。

多くの者がこの問で迷子になってしまう最大の原因は、この日本社会、とりわけ教育システムだと私は考えている。日本の学校教育は戦前の軍隊式教育をそのまま色濃く引き継いでおり、運動会で見られる一斉行進やマスゲームなどが「是」の価値観として完全に統一されているのは、北朝鮮ぐらいしかすぐには思いつかない。

公教育などの問題点

公教育においては、ブラック校則をはじめとする意図的な理不尽によって、徹底的に「従属」を叩き込まれる。反発したり群れから外れようものなら、もうサバイヴできない。これは選別のために隠された踏み絵だ。内申書がブラックボックス化しているのも勿論関係がある。大人社会の組織人事も同じことだ。「逆らえば何か嫌なことが起こるかもしれない」という不安が、人々を支配し絡め取って行く。また、従属によるメリットや承認を享受したいというクズが大量発生することに繋がる。私達は公教育によって従属をプリインストールされ、工業製品のように均質化された上で社会へ出荷され続けている。もしあなたが「個性」で悩むことがあっても、それは実のところあなたのせいではない。あなたはサバイヴのためにそれを自ら封印してきているのかもしれない。

同じようなことがジェンダーについても言える。「ルッキズム」で女性を男性にとってマッチングしやすいよう均質化支配し、「エイジズム」で男性への安定供給を促す。こんなグロテスクな構図が見えてこないだろうか。当然だが、自尊心や自己肯定感を奪い「自分を安く見積もる人間」を量産することが、それを得ようとする人間側(この場合は男性)にとって有利である。

これと同じ構図は、資本家と労働者の関係にもある。偏差値のみを重要視する公教育で均質化することによって、「自分は頭もそこまで良くないし特別ではない。無価値な人間だ」と洗脳し、労働力を安く買い叩いている。なぜ日本で「思考」ではなく「記憶」に偏った教育をされているか考えてみたことがあるだろうか。それは支配のプログラムが入りやすいからだ。私達は考える余地がないほど、繰り返し計算問題を解かされ膨大な量を記憶させられる。ExcelとGoogleの使用は永遠に許可されない。「思考」する人間は支配者にとって邪魔だ。内向型をはじめ、そのタイプがパージされる所以である。

例えば、強烈な言葉「ブス」などは、実は支配の攻撃である。男性でも女性でも、人間性を根底から否定されるようなこのワードには、どうしても怯んでしまうものだが、そこを利用されている。このような言葉を受けた時、悲しくてパニックになると思うが、「自分が攻撃を受けている」という事実だけは知っていてほしい。それさえ分かっていれば、後で落ち着いてから必ず自分を取り戻せるその言葉はあなたを表す真実ではない。あなたは彼らにとって「生意気だ、従え」と言われているだけだ。そのような事で、ゆめゆめ傷ついてはならない。

私自身がそうであったが、このような学校に馴染めない者は至極真っ当だろうと思う。むしろ、このような支配構造に気づかず、率先的にルールやヒエラルキーに埋没し、スクールカーストと呼ばれる小さな村社会のパワーゲームに興じていたタイプが危うい。そこでの強者は、現在も会社や町内会に至る小さなコミュニティにおいても、同じ椅子取りゲームを飽きもせず繰り返していることだろう。本来このような事態を避けるには、多様な人間との交流や、人間関係の流動性の確保、そして成績や人事に関する価値判断基準の透明化などが仕掛けとして必要となってくる。

私は高校生だった時、昼休みに発作的に美術室へ飛び込んで過ごすことがたまにあった。本来そこでは飲食が禁止されていたが、隣の準備室にいた美術教師は見て見ぬ振りをしてくれた。学校には一人になれる場所がない。これが本当に苦しかった。疑問を持たずにこの世界の価値観に慣れるということがどうしてもできなかった。たとえ短い間でも泣ける場所、一人になれる場所が私には必要だった。最終的には離職しているが、10年余の公務員生活もずっとそうだった。車通勤だったので昼休みには隠れるように一人になった。苦しくてたまらない。車を走らせ、後部座席で小さく身体を丸めながらよく泣いた。帰り道では夕日を見ながら、もうピクリとも動かない無表情の目からツーっとただ涙が頬を伝った。ただただ、どこまでも皆のようにはなれなかった。

自分への問いかけ

このように、常に葛藤の中にいた私は「自分が何者か」「己の幸福」そういったものを考えずにはいられなかった。その問に当時答える者はいなかったが、悩み苦しみ考え続けていたことこそが福音であったと、今になって思う。この身に起きたことは単なる悲劇ではなかった。なぜなら、今私の中には明確なものがあるからだ。

日本の家庭や教育システムでは、子供に「将来何になりたい?」と問いかけ、「職業」を答えさせる。繰り返されるうちに、子供は回答の枠をいつの間にか固定され「お医者さん!CAさん!」と「職業」で疑いもなく答えるようになっていき、親もそれを好ましく「褒める」。そのたったひとつ追いかけてきた「職業」にうまくハマらなかった場合に、絶望的な挫折となってしまうことが多い。コロナ禍でいきなり将来を閉ざされた花形と言われるCA及び希望者は、今どうしているだろうか。そして、初めての仕事が天職であるなど、未経験者がいきなりホームランを打つような確率でそもそも現実的ではない。

ここでまず、疑問を持ってほしい。私には幼い頃から、駄菓子屋さん、ケーキ屋さんなど2~3日やってみたい仕事はあったが、「なりたいもの」がなかった。母から「将来どうしたい?」と聞かれて、いつも「ずっとお家にいたい」と答えている。ズボラの萌芽に母は微苦笑していた。

現在、福田萌子氏のスポーツトラベラーをはじめ、新しい職業がどんどん生まれていることをご存知かと思う。Youtuberの存在など、つい20年前には想像さえできなかった。このように、なりたい職業を限定させることは、今後、時代の変化に飲まれてしまう危険性とともに、ポッカリと生きる動機や意味が消える危うさをはらんでいる。

スポーツ選手が引退後に人生を持て余し、よくわからないワイドショーや通販番組、そして詐欺案件に出ていたりと迷子になっているのを見かけたことがないだろうか。対照的にイチローはずっとイチローだ。これが「承認」軸で職業を選択した人間と、「好き」軸で職業を「仮に」時限的に選択した人間の違いだ。

例えば「医者になりたい」と考えている者がいたとして、現在、相当に狭き門である弁理士を除くと、理系で最高峰の承認を手にしやすいのは医師であるが、ここに大きな問題がある。頭脳を要求される以上当然ではあるが、ふるい落としの基準が偏差値のみを重要視しすぎており、倫理やコンパッション(Compassion:思いやり、慈しみ)の軸が軽視されているために、日本のエリート教育が失敗しているという現実がある。とどの詰まりは、現代日本で起こっている官僚と政治家の劣化民主主義の破壊に繋がる。進学校にいる勉強のできる連中は、適性を精査されないまま、とりあえず医学部・法学部に入ってしまう。(※医師や弁護士等の誰もがそうであるとは言っていない。ここはあくまでマクロの話だ)

先進諸外国のエリートが医師と弁護士の両資格を気負いなく得ていることがある。天才的な頭脳がそうさせたこともあろうが、「金をゴリゴリ稼ぎたい」の他に「人の役に立ちたい」という軸で複合ジャンルの技術を自己矛盾なく獲得している人間も多く、必ずしも資格と直結する職業についていないこともある。ここが日本の教育では先導できていない部分だ。

そして、他者による承認ではなく「人の役に立ちたい。痛みを除ける人間でありたい」と思い医師を目指していた者は、例え偏差値が及ばなかったり、金銭的な理由で医学部の入学を諦めることがあったとしても、必ず他の道を見つける。他にいくらでも願いを叶えられる選択肢があるからだ。「~したい」の軸は、どこからでも光や水を求め枝を伸ばそうとする。これが生きる力、食べる力となっていく。そして時折、当初の目的地よりも遥かに遠い場所まで運ばれることもある。

実践のヒント

東京都初の中学校の民間人校長として務めた藤原和博氏の「100万分の1の人材」論をご存知だろうか。誰もが1/100程度の体験・技術を持っている。これを3つ組み合わせて1/1,000,000の人材になろうという話だ。どこでもどんな状況でも食べていける力を手に入れ、あなたが自由でいるために重要な観点だ。記事の最後にリンクを貼っておくので、気になる方はチェックしてみてほしい。

これが、あなたが所謂、世界中でユニークでオリジナルな「個性あるもの」として存在する鍵となる。替えがきかない人間は尊重され、そのことが「私しかできない」という自負や「自分はできる」という自己効力感(NOT 自己肯定感)に繋がる。たとえ最初についた職業で挫折しようが、何度失敗しようが迷うことがなくなる。そのときに強く自分を支えるものがやはり「~したい」軸だ。その分野の経験値があってもなくとも関係がない。

現在私は、言ってみれば「いい酒を呑んで幸せに寝ていたい=私らしくありたい(Being)」欲求を軸に生きている。私の意識は高くない。むしろ相当に低い。今最も気になっているのはサントリー角をどのリットルのペットボトルで購入するのが一番良いかということだ。寒い時期には保存が効くため、毎度この問題が発生する。ズボラーに溜まっていく瓶の処理は難しい。自分の飲める量(さほどではない)と炭酸水の購入量、冷凍庫のロックアイススペース管理など、多岐に渡る緻密な計画と厳密なウイスキーコントロールが必要となってくる。突然の飲兵衛仲間の来訪リスクや、割高なミックスナッツの購入タイミングにも留意しなければならない。

そんななかで、最高の美酒を手にするために気になる社会の諸問題にアプローチすることもある。レオナルド・ディカプリオ主演の「ザ・ビーチ」という映画をご存知だろうか。タイの美しい浜辺で酒池肉林に興じる若者たちの仲間内で、ある日怪我人が発生し、皆で虫の息のその仲間を捨てに行くというシーンがある。理由は「あいつがいると気が滅入る。最高には楽しめない」というものだ。

この感覚には覚えがある。好物を食べるときも、今日の糧に困るような存在のことを思うと、どこかボソボソと味がしない。この瞬間にこぼれ落ちていく多くの者を思うと、いつもの酒もやはり虚しく苦い。世界に不条理があっても、私も私で必ず食べて笑って生きていかねばならないが、目の端にちらつくものが気になって、どうしたって最高水準に達することがない。怠惰な私を突き動かし力を発揮させるのは、やはりいつも他者へのコンパッションから始まるエゴであり、もっともっと本当の意味で旨い酒が飲みたい、そんな欲求であるという話だ。案外、人は自分だけのためには生きられない生き物だ。

眩しく暖かい方を向く

そのような「漠然としているが大きな目的」を自分の中に打ち立てた時、とてつもない力を発揮することがある。大いなる勇気に包まれ、どんな困難にも立ち向かっていけるように後押ししてくれる。そして同時に、自分の言葉が相当な重みと力強さを持ち始める。

マイノリティである内向型や、同じく少数の思考の深いハイブリッド外向型を主な読者対象としている当ブログは、マーケティング的には既にコンセプト段階から最大限に失敗している。大コケだ。一応広告を入れているが、それは誰かの心に届いた回数カウントのためであり、わずかながらでも書き続ける動機付けとなるよう、自分にズボラー保険をかけている。いつか一杯でも酒が飲めれば、そりゃきっと美酒に違いない。サーバを自動更新しないのも警告が来ることによってダラダラしたい自分への目覚まし装置のようなものだ。ズボラ道を極めるには、自分をコントロールする術が必要だ。何か仕掛けをつくっていないと、二度寝するために一度起きるみたいな生活になっていく。

そんな私が、今やたら好き勝手に書いていられるのも、他のことでなんとか細々と食べており、時間の自由度を確保しつつ、書くこと自体は食い扶持ではないことが大きい。潤沢な資金があるわけではないが、なんとかなるという目算もある。人にはリスクを取るべきタイミングがある。今リスクを取らないことが、将来のもっと大きなリスクになると判断して私は今行動している。

あれこれ食い散らかしがちに手を出しているので、いざ職業を聞かれると「なんだろうなぁ」とよく思うが、やはり今はこう答えたい。私の職業=自分だ。オリジナルであることだけが私の人生における本当の意味の仕事で、そうあらねば、私の言葉が必要な人へ届かなくなる。そして、そのような生を生きている私は、明らかにバラ色の人生を歩んでいる。

経済力は一定必要ではあるが、人生の充実において必須ではない。結局のところ物質的な問題ではないのだ。苦しく悲しいことも多いが、喜びに打ち震える瞬間も確かにある。「ただ、伸びやかに自分らしくあれること」これが私のバラ色だ。そして人生の後半40代を迎えた今、好奇心や苦しさのままに走り回った「遠回りで意味のないと思っていた点」がゆっくりと収束してきているのを感じている。ありふれた言葉だが「無駄な経験はない」という日常を私は過ごしている。

食べるために、暫定的に何をしてもいい。興味の赴くままに手を付けてもいいし、経済的余裕がないときは、「取材」と割り切って没人格の仕事をしてもいい。ただ、そのときも常に「恒常的な問と目的」を探し持ち続けてほしい。それだけがあなたを強く、確かなものにしていく。

あなたはただ、瞳を閉じて眩しさや暖かさの方向を探し、遠くで聞こえる鳥の羽ばたきの音を捉え、頬を撫ぜる新鮮な風を感じ、花の匂いを胸いっぱいに吸い込んでいればいい。ただただのんびりとリラックスして心地よいものを探し、そして、しっかりと目を見開き美しいものに近づけばいい。旅の中であなたはきっと見つける。

100万分の1の人材になるための「キャリア戦略論」(藤原和博氏)

日本の入試が脳の育みから見て最低な理由。(茂木健一郎氏)