人生

眠れぬ夜に

はじめに

すぐには解決しない何かを抱え、疲れ切っているのに眠れない夜を重ねたことはあるだろうか。「しんどい。しんどい。しんどい。」ひたすら浅い呼吸と重苦しいため息を繰り返しながら、ただ朝が来るのをじっと待ち続ける長い夜だ。

そんなとき、人は「死にたい」でなんとはなしに検索してみるのではないだろうか。しかし、ヒットするのは自殺予防センターのようなものばかりで、これがまた私のような者には何の役にも立たない。

見知らぬ誰かに悩みを聞いてもらいたいと思わないし、それで感情の処理ができたり解決に繋がる類の悩みでもない。胸に詰め込まれているのは苦しい虚無感のようなもので、そもそも話せるような悩みではないから、このような状態に陥っているのだ。「分かってねぇな・・・」とひと通りスクロールして、ため息をついたら、それで終わりだ。こんな時、キーワード検索は無力で、窓の外はまだまだ暗い。

「死にたい」というのは、解像度の粗い、いわば雑な代替語であって、きっと「死にたい」で検索する者が本当に知りたいのは、「こんな苦しい夜を人はどうやってやり過ごしているのだろうか」だ。少なくとも私はそうだ。

私自身も深く落ち込んでしまう時期というのは時折あって、数ヶ月続くこともあるし、ごく薄っすらとした憂鬱はもう何十年単位で続いている。そんな鬱ベテランなので、この波がちゃんと回復することも知っている。

深く潜航していると、以前どんな風に復調したのか自分でも思い出せず、今後のために記録に残そうと一瞬思うのだが、ズボラが喉元過ぎたものを振り返るはずもなく、いまいち自分がどう藻掻いたかを覚えていない。だからシェアできるのは、「そういう時、こういうことしてることが多い」というぼんやりとした鬱ハックだけで、即効性がある確かなものではないが、まぁ、今日が長い夜なら、リラックスして暇つぶしに読んでみてくれたらと思う。何の足しにもならんかもしれんが、少なくとも朝に5分近づく。

しんどい時あるよ

愛されていた過去を思い出すと切なくて寂しい。他人に粗末に扱われた記憶が呼び起こすのは、悔しさと怒り。大切な人のための時間や行動が、ふと奪われているように感じてしまうときの苦味。自分を大切にできなかった己の愚かさは、何度後悔しても足りない。

「死にたい」という言葉を紐解いたとき、私は別に本当に死にたいわけではない。皆それぞれに、上記のような思いを多々抱えていることだろうと思う。引っくるめた言葉がないから、「苦しさから逃れたい」という思いを、便宜上「死にたい」とまとめるのではないだろうか。

医療の助けを借りる

まず大前提として、今現在、感情が吹き荒れて飛び出してしまいそうな衝動があるのなら、まずは心療内科を受診することだ。記事はまた、待合室での暇つぶしにでも読めばいい。心療内科を受診したことがない場合でも、病院探しは「病院に行くほどではない」と思っている時にこそやっておいた方がいい。危機は突然やってくる。

私が心療内科を初めて受診したのは随分前になるが、やはり忌避感というか、生命保険に加入できなくなる不安もあったし、そこまで追い詰められているということを自覚したくなかったという思いや、そもそもこの状態を鬱というのなら、それは学生時代から薄っすら続いてる状態なのに・・・?という思いなどがあった。

ちなみに、生命保険に関しては、告示条件が緩い「引受基準緩和型生命保険」という受診後でも加入できるものがあるので、あまり深刻に考えすぎず、医療の助けが必要ならその手を取る方が良いと思う。

その日は突然で、「駄目だ、もう耐えられない」と職場を抜け出し、突発的に調べておいた病院に予約をした。心療内科の待合室は色んな人で混雑していて、とても不安で心細くなり少し泣いたのを覚えている。飛び込みで電話予約をしたのは合計2回で、声の震えから緊急性を汲んでくれたのかもしれないが、いずれも即日で受診できたのは単なる幸運だったと思う。昨今、精神科や心療内科はとても混雑していてなかなか予約が取れないので、「これが限界なんだろうか。医者にかかるほどの状態なんだろうか」と思うような場合でも、あまり気負わずに予約したらいいんじゃないかと思う。

おじいちゃん先生と薬の効果

私はたまたま最初に行った心療内科が当たりで、以来眠れない時などたまに通っている。清潔感のある初老の先生は、訥々と話す内容をせっせとカルテに書き込んでいた。

初めて診察を受けた時、「ああ、こんな私の話でも、カルテに書き込む何かしらはあるんだな・・・」と妙に安心した。正直なところ、憂鬱な思いは少年期から続いていて、もはや人格の一部となっているそれを、医療の助けがいるものと認めることにまずハードルがあった。そして、今まで堪えてこられたものと、今回のそれが明確に違うという確信もなく、「ただ、自分は大げさに騒いでいるだけなんじゃないか」という思いもあった。私はそれまで誰にも背中を預けた経験がなく、自分で自分の限界点が分からなかったし、カウンセリングを受けたところでそれは変わらないだろうという思いもあった。

そんな迷いを伴った診察であったが、結果として得たものは意外と大きかった。まず、自分の症状に仮にでも診断名がついたこと、医療行為の対象であったことは、ショックではあったが落ち着きに繋がった。

おじいちゃん先生の診察は何度も受けたが、別に私は自分の心を全開放し、全幅の信頼で己を委ねているわけではない。初めはそんな状態の問診に意味はあるのか、なんてことを思っていたが、やっぱり意味はあった。

私自身は、自分の中の客観が強すぎて、ある意味ずっと第三者と脳内で対話しているようなものなので、今更それが医療専門職に取って代わったところで、そこまで劇的な効果などなかろうと思っていたのだが違った。

第三者として存在するリアルな人間に「お疲れ様でした」と言ってもらえたことが私を救った。今でもずっとその言葉を抱きしめて生きている。

安定剤の効果

当時処方されたのは、睡眠薬(アナフラニール)と安定剤(デパス)で、これが普段薬を飲まない私にはよく効いた。特筆すべきはデパスの効果だ。

正直、これを飲んだ時は衝撃だった。感覚がゆるくなり、周囲の音や匂いが遠くなり、世界は薄ぼんやり静かなものとなって、私は自分がまるで繭に包まれているような安心感を得た。

それ自体は歓迎すべき状態だったのだが、「もしかして、普通の人達はこういう静かな世界に生きているんだろうか・・・」と気づいたときのショックは忘れられない。鈍感力?よく言うよ、そんなもの努力で手に入るレベルのものじゃない。こんなにも、こんなにも感覚が違うじゃないか!

デパスはよく効いたがデメリットもあった。薬の切れ目がハッキリと分かり、それが今度は新たな不安に繋がる。また、少し眠れるようになっていた自分はこんなことも考えるようになっていた。

私は確かに、神経症的に音や匂いなどの刺激に敏感すぎるきらいがあって、それが生きづらさに繋がっていることは確かだが、では、薬の繭で低刺激で生きることが幸せなのかというと、そう簡単な話でもなかった。

私はきっと、自分の感覚が尖りすぎていること自体を嫌だと思ったことはない。それはずっと自分と共にあった感覚で、心強い旅の相棒であり、それ自体を疑ったことはないのだ。薬を飲み続ける選択肢は消え、この時から私は自分自身ではなく、自分の置かれている環境そのものを少しずつ疑い、新しい場所を探すようになった。

おばけの話

感覚と関連した話題として、フィクションにおける特殊能力の描かれ方について考えてみたい。人には見えないものが見えたり聞こえたりといった超能力者が出てくる作品は多いが、それをどのように受け取っているだろうか。「その能力があれば、あんなことができる」とポジティブに楽しめる側面もあるが、私がいつも注目していたのは登場人物の苦悩の方だ。

人が認知しないものが見えてしまっても、誰ともその感覚を分かち合えない。見えている自分にはそれを無視することも難しく、かといって常に巻き込まれていると疲弊する。これはそのまま、内向型や何かの感覚が強い者が持つ心情そのものだ。フィクションをその角度で読み解くことで、間接的に少し慰められることがあるかもしれない。

ポジティブ教

鬱はその症状だけに苦しむのではなく、周囲と比べてしまうことで傷つきが深くなる側面がある。停滞し続けている自分とは対称的に、世の人々は邁進し続けているような気がして焦ってしまうのだ。年齢が若い程このような不安に陥ってしまうと思うが、鬱ベテランがあなたの心を少しでも軽くできたらと思う。

近頃のSNSには「成長!成長!」と声高に叫ぶ意識の高い眩しい方々が多く、ズボラな私は「すげぇな・・・人ってそんなに成長するのんか?」という感想しか出てこない。そもそも、経済みたいに人間も成長し続けなければならないなんて、一体誰が言い始めたんだろう。それはきっと支配階級じゃないのか。学ぶことの重要さは決して否定しないが、生きて何かを感じるということは、それこそが学びであるし、資格取得などスキル獲得の努力をするのも素晴らしいことではあるが、それを成せば成長しているというのも浅慮が過ぎる。それは仕事というひとつの側面でしかないし、人生において重きを置くポイントは個々人によって異なる。

案外、自分の物語を生きているような人間は、そのテーマに沿った気づきを得ることだけを成長と捉えていることも多いのではないだろうか。そのようなゆっくりとした成長は確かな指標がない。何年か経ってから己を振り返って「いつの間にか、ここまで来ていた」と気づくようなぼんやりしたものだ。

ずっと同じ場所で足踏みしているようでも、それはゆっくりと螺旋階段を登っているようなもので、少しずつ遠くが見渡せる自分になっている。何かを感じて心を動かし続けている限り、あなたは刻々と変化している。あなたは、深い地層のなかで圧力をかけられながら、何年も何年もかけてやっと数ミリ成長する珠玉だ。時間がかかるのは仕方ない、焦るな。

時折、流れ弾に当たったように「ウッ」となるのは、転生前のベッキーのようなポジティブ信仰者である。「こういう考え方で前向きになれる!考えても仕方ない!!」等、その感情と正面から向き合わず、ある種ヒステリックにネガティブを切り離してポジティブに全振りするようなキラキラ星人が私は少し苦手だ。

そういうポジティブ教徒を見るにつけ、「どないやねん」と私は思っている。人は揺らぎがあるのが当然だ。そうやって心を揉み続けることで、豊かな土壌が形成される。苛烈な太陽は大地を硬く枯らせてしまうし、土が柔らかくなければ雨の恵みを受け取れない。

落ち込みのサイクル

無気力になる鬱期は、ひたすらに時間を無駄にしているような焦燥感がかつてはあったが、最近は定期的な訪いのようにも感じている。おそらく私は、バランスよく日々を生きるということができない。何かに夢中になると過集中してしまう時期があって、鬱期はその反動のようなところもある。そして、その後には深い部分からふっと閃きが湧き上がってくるようなことが多い。それは何年かに1回レベルの強いインスピレーションで、そういう自分を発見して以来、鬱期をある種の通過儀礼のように捉えるようになった。今ではもう、自分の人生サイクルに当然のように織り込んでおり、必要経費と受け入れるに至った。

刺激を受けて疲れきった後に、自分の中に深く沈むことで情報の整理が進み、無意識が勝手に仕事をして何かを発見する。幾度か繰り返したこのサイクルは本当にしんどいし苦しいが、もうコントロール不能な性質なのだろうと諦めてもいるし、何かを掴み取ってくる自分自身のある種のしぶとさを信頼してもいる。

天使との契約

たまにこんな思考実験をすることがある。生まれる前、天使と赤ん坊が次の人生でどんな体験をするかチェックシートでヒアリングしている場面だ。「そうですか、そうですか。今度は兄弟のいるご家庭に末っ子として君臨して、猫を飼いたいんですね。そうですか、そうですか。将来はできるだけグータラできる仕事をしつつ、世界中を旅して宇宙人にも会いたいと。なるほどなるほど・・・」と、愛想のいい天使がファミレス店員のように、ハイハイと事務的に人生ツアーのオーダーシートを埋めていく。

そんな世界観を想像したとき、きっと私は「あらゆる感情を体験する」と、欲張って全項目にチェックを入れたんじゃないかなとよく思う。バイキングで、とりあえず全種類をちょっとずつ制覇する貧乏性特有のあれだ。生まれる前に興奮状態になっている赤ん坊未満の私は、きっと調子に乗って全項目にチェックを入れた。オプション全盛りでオギャーと生まれてきたに違いない。

そう考えると、苦しさや虚しさを抱えて途方に暮れるような日々も、「そういや、そういう契約したような気がするわ・・・」と自分のバカさ加減が少し笑えて気持ちがゆるむ。誕生ハイでやらかした人は私の他にもいっぱいいると思う。

「今している経験は事前契約したチェックリストの一項目に過ぎない」そう考えてみるのはどうだろうか。調子乗りの私達は、きっと世界旅行に出かける前夜のようなテンションで、ワクワク・ドキドキ・幸せ・温かさ・安らぎ・悲しさ・苦しさ・・・他にもいろんなものにチェックを入れているはず。全ては経験する順番の問題だ。たまたましょっぱい経験を先にしているだけなのだ。手札の順番は誰にも読めず、人生は生ききってみないと分からない。苦しくても「あと一枚だけ」と、もう一枚、もう一枚とカードを引き続けるのだ。

長い夜の過ごし方

眠れぬ時期に私がやっていることと言えば、まずは可能な限り人に会うことを避けて刺激を減らす。人の声を聞くと疲れてしまうので、やり取りは文字ベースで行い、ひたすらに閉じこもっている。私の場合は、ひとりでポツンとしなければ本来の自分に戻れない。他者がいるとオートで発動してしまう表情のコントロールを止め、相手の思考を読むことを止め、声音を分析することも止める。自分の領域から他者と雑音を可能な限り締め出して、自分の中にひたすらに深く深く潜っていく。孤独だけが私をニュートラルな状態に戻してくれることを知っている。

チェロを聴く

己の感情を見つめたくもない。苦しさからただ逃れたい。何もしたくない。息をする度に肺が虚しさで満ちていく。そんな夜に聴くのはチェロがいい。

腹に響く音が心臓に上がってきたかと思えば、胸の混沌をかき乱して喉元にまでせり上がってくる。泣き疲れた体は震えるだけで叫ぶこともできないが、チェロが代わりに少しだけ気持ちを逃してくれる。チェロだけが弱々しい私のそばにいて、一緒に鳴いてくれる。

チェロをメインで聴くことがなかった方には、アイルランドの美しい自然でチェロを弾くPatrick Dexter氏を紹介したい。この音色が気に入ったら、お気に入りのチェリストを探してみるのもいいかと思う。

人の声に一番近いと言われるチェロの音色は、自分でも言語化できない抽象的な感情をそのままで描き出してくれるような、自分の代わりに歌ってくれているような気がする。凝り固まった心に寄り添ってくれるようで私は好きだ。

おすすめのコミック

フィクションを摂取できそうなら、おすすめの作品を2つ紹介したい。

イティハーサ(水樹和佳子)

これはもう20年くらい前に読んだきりなのだが、いつまでもそのメッセージが色褪せない名作だ。「善も悪も」といった、やや重いテーマではあるが、人生を俯瞰したい時期にはちょうどいい。

作中人物がこう語りかけるシーンがある。
「自由になるまで、生きよう」

当時、この言葉がなんとも温かく、じんわりと力強く心を照らしたことを覚えている。ただ「そうだな」と思った。「苦しくなくなるまで生きよう。悲しくなくなるまで生きよう」と思えた。

歌うたいの黒うさぎ(石井まゆみ)

こちらの作品は、脱力系の登場人物が好きで何度も何度も読み返している。私の理想の職場はズバリ、楡屋敷(にれやしき)家だ。主人公のテキトーっぷりがどこか他人とは思えない。ほんのり心が温まる作品なので是非。

おわりに

駄文は長い夜の慰めになっただろうか。眠気の足しになったなら幸いだ。

私は幼い頃、いつも寝る前に挨拶していた。「お父さんおやすみなさい。お母さんおやすみなさい。兄1おやすみなさい。兄2おやすみなさい。太郎(飼っていた鶏1)おやすみなさい。花子(鶏2)おやすみなさい。ミーちゃん(白猫のぬいぐるみ)おやすみなさい・・・」

そんな可愛らしいことをやっていたのだが、兄2が熱帯魚を飼い出したあたりから雲行きが怪しくなった。ネオンテトラ、めっちゃおる・・・。誰が誰かわからんし、彼らにはそもそも名前がなかった。私はだんだん面倒臭くなってきて、最終的に「地球のみなさんおやすみなさい」という魔法の言葉を使うようになった。地球の裏側にいる人々には朝っぱらから申し訳ないが、これはもう仕方がなかった。

つまり、私の挨拶には勝手にあなたも含まれている。今夜私は先に寝るけれど、また夜がくれば挨拶するよ。「おやすみ」