予告編でどうしようもなく気になり映画館へ。熱い涙というよりは、つらつらと何度となく涙がこぼれた。切なく、悲しく、愛おしい、そんな感情が残る映画だ。
物語は、とある貧困家庭の人間が、さらに困窮している子供の面倒を見始めるところから描かれている。狭い巣のように感じられる家の中には、何やら一筋縄ではなさそうな関係の人々が家族をやっている。
心に残ったのは、樹木希林さんの海辺のシーンだ。死が近いと知っている者だけの感情を、呼吸と存在で表していたように思う。私は年代的なものか、母を思った。
映画の全般を通して、安藤サクラさんが美しかった。健康的な裸体にも魅せられた。彼女の中庭の涙、取調室での涙、まるで親友が悲しんでいるかのように、その震えが届く。
予告編でも流れているとおり、家族は警察に見つかり、裁かれることになる。彼らのしたことは、部外者から事実だけを見れば、奇妙で、いびつで、おどろおどろしい部分もある。
ただ、やはり、彼らに真実がなかったとも思わない。嘘だけではない。真実だけでもない。1度目の誘拐は、人間のエゴとそれ以外の心との綱引きだ。確かに一人の人生を大きく左右してしまった部分では、とても罪深い。だが、それは誰が裁く、誰にとっての罪なのか。
自分の人生を考えたとき、「あの人はこうだった、だから、過去のあのことも、このことも、こういうことなのだ」と、ベクトルを決めてしまうことはないだろうか。
裏切られたと感じたときに、過去の全てがそうであったように感じたり、その逆も。人間はそうしたレッテル貼りをするものだが、万引き家族達はどうやら、時点で感情を捉えることに長けているような気がする。
確かに今こうなっているけれど、だからといって、あの時のあの感情がなかったということでもない。
自分のことならある程度甘やかせるが、他人の多面性というのは受け入れ難い部分もある。単純に混乱するし、その深さでいちいち向き合っていては消耗もする。けれど、そういった視点もいいものかもしれない。何より、移ろうことが自然に感じられ、自分の変化に言い訳しなくてもよいからだ。
最後に、私は松岡茉優の裏切られた顔が忘れられない。第三者から見れば、彼女が受けた暖かさは本物だと分かるのだけど、当事者が信じるには難しく、それが一般的に私達に起こっていることなのだろうと思った。彼女は観客の立ち位置でそれを教えてくれた。
暖かさを信じること、それは、自分を信じること。