リアリティショー

バチェラー4 #03

はじめに

今回はepi07+トークSPを視聴後のレビューとなります。(#00epi01-03epi04-06のレビューはこちらです。)

epi07を見始めてすぐに、自分の心が急速に冷え込み、黄皓氏に対してシャッターを下ろしつつあると感じた。ここまで来ると、気をつけていてもなかなかポジティブなメッセージを受け取りにくく、偏ってしまう。自分の仮説を証明するために、ネガティブに感じた理由ばかりを集めてしまうという心の動きがあるからだ。今回、もはや私は中立でフラットな見方をできていないだろうから、先に謝っておく。

今回は人物を主軸に各エピソードを追いながら、「ウケとモテ」「ルッキズム」についても語ってみたい。

休井美郷氏

(C) 2021 Warner Bros. International Television Production Limited

しっかりとした心理的なやり取りがないまま実家訪問までエピソードが進み、とうとう家族を巻き込んでいくのだなぁと思いながら見ていた。

私の心が氷点近くまで冷えたのは、お父様との釣りのシーンだ。それまでは、黄皓氏のオウム返しな会話も通常運転だと流せていたのだが、このシーンで私が思い浮かべたのは、24時間テレビでアイドルが病院を慰問するような場面だ。政治家が有権者と交流する場面と言ってもいい。ご家族という、番組への協力を依頼しているような方にも演技と仮面で対応するのだなという、尊敬を欠いた白々しい態度が私のイラツボを刺激した。

もちろん、仮面は誰にでもある。特に初対面のときに、よそ行きの顔になるのは当然だ。しかし彼のそれは、よそ行きを通り越して「誰にでも垣根ないコミュ力最強の俺像」を演じてしまっている。これは即ち、今後の連続性や整合性を全く気にしていない、今回限りの出会いであると宣言しているようなものだし、オーバーすぎるリアクションも小馬鹿にしてるようで鼻につく。食卓で彼の振りまく笑顔はホラーだ。

私は、自分を表現せずに仮面をつけ続けている者と対面すると、「この人は私と対話をしたり、関係を築く気がないのだな」と感じ、とても悲しくなる。休井美郷氏の家族訪問一連に漂う空々しさが辛い。テラスで3人で話しているときに、お父様が縋るような目で彼を見つめていたのが印象深かった。

休井美郷氏からの「好きだと言われたことない」を受けての彼の虚を突かれたような表情は面白い。その後、顔をそむけながら「好きだよ」と伝える茶番感がいたたまれない。

実のところ、私はこの家族を巻き込む、家制度を引きずるような演出が少し苦手だ。昨今のリアリティ・ショーは、視聴者によってSNSを掘り起こされたり、展開によってどんな炎上や余波があるか読みきれないところがある。自分の100%の意思で参加している本人と家族の思いは当然異なることだろう。家族の代わりに親友や同僚の出演ぐらいでもいいんじゃないだろうか。また、家族の協力が得られず躊躇しているような参加希望者も多数存在するのではないかと思う。シーズンを重ねて、必ずしも結婚に至るわけではないと視聴者も理解しているので、そろそろこの演出は撤廃でもいいんじゃないだろうか。家族はとてもプライベートなことだし、もっと守られてもいいと思う。

秋倉諒子氏

(C) 2021 Warner Bros. International Television Production Limited

彼女といるときの黄皓氏はとてもリラックスしていて自然体だ。テーブルの下で足を組んでいるのも彼にしては珍しい。

秋倉諒子氏の理知的かつ率直で温かい雰囲気は、見ていてとても心地よく素敵だ。

TAKER VS. GIVER

とても興味深かったのが、テラスでお父様と対話するシーンだ。この場面で浮き彫りになった黄皓氏の薄っぺらさはもはや隠しようがない。「弱ったら守られたい。結婚すると手に入るか」との彼の問に、「これだけしたから、返してくれと思わない」とのお父様の返答に、俯く黄皓氏。このとき彼は恥じ入ったのかもしれない。しかし、それを振り払うように、その後も大切な言葉を紡ぐお父様を見つめる微笑みが、私にとってはホラーだった。

内容を理解もできていない小物が、必死で背伸びして大物にインタビューしているような印象を受ける。彼はお父様のこの言葉を、さも自分が承認するような立場で鷹揚に微笑みながら受け取るのかと愕然とした。このときに私の心は完全に凍り、彼に対して見切りをつけてしまった。

彼には戸惑いがあった。こんなときどんな表情をしていいのか、どんな言葉を続けたらいいのか、きっと分からないのだろう。それはいいのだ。そのままでいいのに、微笑みに回収し、自分の理解できる範疇に収めてしまうのがとても惜しいし怖い。

こんなに大切な話は、人生で何度も聞けるわけではない。大きなメッセージを受け取るときは、衝撃が強く動揺するし、すぐには理解できないことも多い。大切な言葉はいつもそんな風に届く。だから彼は、「僕は理解しています」的なポーズを取る必要は全くないのだ。ただ、感じていればいい。相手の目の光や言葉を取りこぼさないように、「この人は何かとても大切なことを話している」とだけ感じていればいいのだ。反応する必要などない。心に届いたものは、きっと後から深く理解できる時がくる。

これほど貴重なときに、彼の瞳に光りが宿らず、真剣に聞き入り学ぶ姿勢にもならないところに、本当に落胆した。「ああ、彼には届かないのだ」と。いい感じの返しをしようと模索しているが、器の違いは明らかだ。彼の人間的な奥行きのなさが、情けないほどに露呈したシーンだったと思う。

彼は典型的なTAKER(テイカー・真っ先に自己の利益を優先させる人)であり、お父様のようなGIVER(ギバー・人に惜しみなく与える人)との差は明確だ。誰もがGIVERを目指す必要はないが、生涯の伴侶に対しても受け取る発想が先にくるのはなかなかのものだ。30代の今はイケイケだろうが、40代に入る頃には、この底の浅さは多くの者に見抜かれるだろう。目下の者とつるんでばかりいると自覚しづらいだろうが、周囲の人間は成熟していくのだ。

これは今までの旅の様子からも度々感じていた。彼は常に自分の感情を優先しており、「真剣に向き合っている」とする相手の感情にさえ疎く尊重もしない。さて、結婚について、彼は「世界中が敵になっても」と、三文芝居的な表現を繰り返すが、逆に彼が相手に与えるものとは何だろうか。もちろん彼には資力があるが、それがどうした。それ以外に彼が与えられるものとは何だ。彼は「心と体を預けられるような存在」を求めていたが、自分自身は相手のそのような存在になれるのだろうか。

玄関先で秋倉諒子氏と話す彼は、婉曲的に藤原望未氏への想いについて相談していたのだろう。「過去のことは気にしなくていい」「好きな人の方がいい」と背中を押してもらい、ここでも感情ケアを受けている。それにしても、秋倉諒子氏の大局観と包容力は凄い。彼女は全てを見通した上で、役割を全うしようとしている。

マイノリティは言葉とアンテナを持つ

内向性の強い私が常々感じていることのひとつに、男性と女性の言語能力差がある。そして、これはそのまま心情理解・感情ケアの差に繋がる。率直に言うと、私が深い対話ができる言語レベルを獲得していると感じる男性は1割を切る。女性はそれよりだいぶマシだ。現実世界で発見するのはなかなかに困難で、内向性の強い女性がマッチングしにくいひとつの原因だろうとも思う。断っておくが、これは知性でも語彙の話でもない。世の中にはアホな私より賢い人がほとんどで、私は人類の末っ子だ。

シンプルに、マイノリティは言語を獲得しやすい。理不尽な偏見や無理解によって内省する機会が多く、また周囲に訴える必要があるため、自分の心や状態を表す言葉を早期から探し獲得していく。そのため、内向型や女性が言語や感受性を強化しやすいというだけだ。知能や優劣の話ではなく機会の話だ。男性・女性と単純に書き分けたが、男性であっても、例えばセクシャルマイノリティであったり、経済・兄弟格差のあった者、身体に障害や持病がある者など・・・弱者に置かれた経験を持つ者は、独自の言語を獲得していることが多い。「言葉」という世界において、弱者のそれは強いものに反転するのが面白いところだ。

例を挙げたい。「千と千尋の神隠し」というアニメ映画がある。「名を奪われ銭湯で働く」という描写について、私の女性の友人達は、名を奪われ性を差し出す労働「婚姻」の比喩であるとすぐに気づいていた。さて、男性達はどうだろうか。この感受性の違いがマジョリティとマイノリティには常にある。

残念ながら相当に気をつけていないと、一般的なマジョリティ男性の言語とアンテナは、マイノリティのそれに比べて貧しいままとなってしまうことが多い。マジョリティ男性とは、健康で外向的かつ体育会系、性的対象は女性で、日本において日本人で・・・というところだろうか。

これらの恵まれた属性を持つ者は、理不尽な目に合うことが少ない。故に立ち止まったり、己の特権性を意識する機会も少ない。そうなると、残念ながら己の心情を言語化するという習慣を持ちづらく、これが曲者だ。相手の心情を汲み取るには、まず自分の心について敏感である必要がある。自分の心をしっかり言語化できるレベルで理解できていて初めて、他者の心を想像したり察することができる。たとえマジョリティであっても、想像力や思いやりを持ってマイノリティに耳を傾けることで、自然にこれらの能力を強化している者もいる。しかし残念ながら、黄皓氏には圧倒的にこの姿勢が欠けている。

男性は心を預ける対象に女性を思い浮かべがちだが、女性側はそうでもない。正直物足りない。女性は、女性同士でアンテナを張り、お互いの感情ケアを日常的にやっている。私に関して言えば、言語能力や察する能力の低い男性に対して、感情ケアや自分の危機に間に合うことをあまり期待していない。さて、再度問いたい。このような相手の心情に疎い黄皓氏がパートナーに与えられるものとは何だろうか。

藤原望未氏

(C) 2021 Warner Bros. International Television Production Limited

予想外の展開に、黒目が一回転して復活した。GJ。

帰国後の隔離期間を経て、旅の仲間も少なくなった途端、バチェラーのキラキラマジックが消えてしまったのだろうか。プーケットでの収録は、例えは悪いが、人だかりができているタイムセールと同じで、必要かどうかは分からないが、機会を逃して損したくもないし、とりあえず気になって手にとってみるような状態ではないだろうか。そのうち周囲がワゴンから離れて新商品の試着を始めると、途端に型落ちのそれが本当に欲しかったのか分からず、急速に興味が削がれてしまうのだ。

藤原望未氏の突然の告白を効いた黄皓氏は冷静さを保つよう努めていたが、上着を脱ぎだす一瞬前、俯いて目線を彷徨わせる表情が人間臭くて良かった。

このタイミングになってしまったのは、彼女も好きになる努力をした上での限界点だったのだろうし、彼女なりの「誠実で正義」だったのだろうと思う。同じように「自分よがりの誠実と正義」を女性達に貫き通してきた彼が、何か言えようはずもない。

全力でコミットした恋愛というのは、いずれ淡い思い出になることもあるが、生涯心から消えることなどない。彼女が今回あのような言い回しをしたのは、体のいい単なる言い訳であり、本質的な原因ではない。ストレートに言ってしまえば黄皓氏に心が震えるような瞬間がなかったということだろう。

外国の市場で珍しい果物を発見したとき、あなたはどうするだろうか。食べてみたことはないけれど、これはきっとあれに似ているから、同系統の味かなと予想するのではないだろうか。藤原望未氏もきっとそうだ。経験から自分の熱量の最終到達点の予測がたち、それが過去の恋愛を超えないことを悟ったのだろうと思う。「この果物はもしかしたら口に合わないかもしれないけど、試しに食べてみよう」という気概が持てるほどには、彼に興味が持てなかったということなのだろう。

そして、ローズセレモニーでの別れのシーンが興味深かった。別れの挨拶を交わす二人を見守る秋倉諒子氏も休井美郷氏も、もはや全てを悟っている。そして、映像はなかったが、藤原望未氏への黄皓氏のコメントは涙声で、見送る視線も寂しげで、とても辛かったのだろうと思う。

その後、ファイナリストとなった二人の元へ戻り乾杯する様子には、もはや後戻りができなくなり、この茶番に最後まで突っ込むつもりなんだなと憐れさを感じた。きっとこの事がきっかけで、彼の仮面がさらに強固なものになってしまうだろう。

未熟な視聴者がルール厳守や大団円を望みすぎるがゆえに、演者にプレッシャーを与え、かなりのものを強制してしまっている。これは何とかならないのだろうか。私達視聴者もそろそろ成熟して、人間性を垣間見れたら、それだけでありがとうと言えるようになりたい。結果やルールなんてどうでもいいじゃないか。何も恋愛感情が至上の感情という訳でもない。ゲームのなかで生じた友愛にフォーカスしたっていいのだ。どうか出演者がちゃんと守られる幸せな機会であってほしい。

藤原望未氏にローズを渡さなかったのは、彼のプライド以上に、彼女をもう追い詰めたくないという優しさもあったのだろうと思う。彼には、前回のバチェロレッテで引き際を見つけられなかったという思いがあるのではないだろうか。気持ちがそれほど育っていかない中で、自分の辞退によってゲームバランスが崩れてしまうことを考えると降りることもできず、不誠実な対応を続けた。優しい彼にはそんな反省やジレンマがあったのではないだろうかと推察する。そして今回、妙な場面ではあるが、そんな過去の経験を活かして、そっと彼女を解放してあげたんじゃないだろうか。

トークSP

長尺会話泥棒

トークSPでMCの質問に答える黄皓氏の様子から、少し腑に落ちたことがある。彼の話はとにかく長い。これは日々「聞いてもらえる」特権的な立場にいるせいだろうが、微妙に論点をずらして周辺をふんわりうまく文章にまとめており、政治家の答弁のようでもあり、狐につままれるような巧みさだ。内容が薄く、聞いているうちにだんだんどうでもよくなって聞き流してしまう。

秋倉フォロー、青山詰め、中野感情ケアの場面で見せてきた彼の長尺語りは、説明したいという欲求がそうさせているものだとばかり思っていたが、もしかして彼は、会話泥棒で話がいつも長いのかもしれない。そして、長い割に中身がスッカスカで、編集点がないんじゃないだろうか。深い話をしているような気配もなかったが、女性とのまともな会話シーンが存在しないのは、そもそも切り取りにくい長尺かぶせが原因なのではないだろうか。

キョドるバチェラー

©2020 Warner Bros. International Television Production Limited

いや、写真は間違えていない。登場したときから既に黄皓氏の影は薄いが、藤原望未氏が登場するとなった時から退場に至るまで、キョドりが止まらない。懸命に表情を作る努力をしているが、瞬きが止まったり口元に力が入ったりと、ずっと動揺している。

そして、光が入らない真っ黒な目には既視感があった。バチェロレッテの初日敗退者・谷口達郎氏だ。彼の目に酷似している。二人の感情は違うだろうが、私はこの光が入っていないのっぺりした目がとても苦手だし、怖い。理由ははっきり分からないが、私の危機アンテナがめちゃくちゃ反応している。

このスタジオの収録は、ファイナルまでの全行程が終了した後だろうと思うのだが、誰かを選んだ後でも、藤原望未氏への動揺を隠せていない彼を見てしまうと心配になる。彼にとって後悔のない、良い選択ができているのを祈るだけだ。

ウケとモテ

世には「ウケ」と「モテ」という言葉がある。今回ここでは、あえて2つを狭義で定義し、考察してみたいと思う。

ウケ(男ウケ・女ウケ)とは初動のコミュニケーション力が物を言い、魅力的な容姿や柔軟な会話の瞬発力がそれを下支えする。対してモテは、心まで到達する深いコミュニケーション力や人間力が影響し、発露に時間がかかる。もちろん、ウケとモテ要素を併せ持つ最強人間もいる。

バチェロレッテのファイナリストに例えるならば、黄皓氏はウケ派閥、杉田氏はモテ派閥ということになろうか。黄皓氏の会話は巧みであるが、言ってみれば、彼は合コン開始10分の会話を永遠にループするスタイルであり、「対話」ではない。対して、杉田氏の態度や言葉はゆっくりでキャッチーではないものの、丁寧に織った独自の表現は深いところまで届き記憶に残る。

今回のバチェラー4を見ながらぼんやり妄想していたのだが、仮に私が黄皓氏とデートするなら、博物館か映画しかないなぁと思っていた。美術館では「感じる」ことができない彼のカスみたいなしたり顔にイラツボが反応してしまう。なんというか、彼とは何かアクティビティがないと間が保たない。これがウケだけを追求している派閥の弱点だと思う。言葉や精神世界を大切にする者にとっては、深い「対話」こそがご馳走なのだ。ウケ派閥の場をパッと明るくするようなコミュ力は素晴らしいが、人間は成熟とともに、表層的なものではなく、個々人の深いモテ要素にこそ惹かれるようになる。

インスタントな夜が欲しいとき、彼ほど最高の条件を持つ者はいない。清潔で優しく金払いも良さそうで、ストーカー化もしないだろう。黄皓氏は案外、遊ぶつもりで遊ばれてきたのではないだろうか。

世にあふれる恋愛工学の書籍や雑誌のモテ特集は、きっと「ウケ」について書かれたものがほとんどだろうと思う。しかし、相手の目の奥まで見通し、己も入り込むような、そんな深い対話と関係をパートナーに求めるならば、ウケなんかを追求していると遠回りになってしまうだろうと思う。

ウケ工学とは、不特定多数の好意をインスタントに釣り上げるための、最大公約数的な知見を集めたものであり、あえて自分の特性を薄め、自ら量産型に擬態するようなもので勿体ない。対してモテは、シンプルに自分の個性を大切にし、恥ずかしがらずに表現するだけだ。技も法則もない。魅力が伝わるのに時間もかかり間口は絞られてしまうが、まがい物を釣り上げることも少ない。

SNSのイイねを始め、「ウケ」をたくさん得ると簡単に承認欲求が満たされ、若い頃はそれに溺れてしまうこともあるだろうが、あまりに数だけを追求しすぎると、他者軸で生きることに繋がりやすいので気をつけたいところだ。あなたが自分の個性を大切に表現したとき、その輝きに気づく者は必ずいるし、きっと出会える。

ルッキズム

バチェラーの一大テーマであるルッキズム(容姿や身体的特徴で人を判断すること、外見至上主義、またそれによる差別)について考えてみたい。

否定的な言葉は少ないものの、SNSやトークSPにおける女性を比較するかのような数々の発言にはとてもがっかりしている。女性は品評会に出されている牛馬ではないのだ。「話してなくてもローズを貰える人もいる」のくだりに、市橋麗里シェーン氏は傷ついたんじゃないだろうか。あんな風に水を向けられたらピエロになって笑うしかない。いい加減にこういう笑いは卒業したらどうなのか。

もちろん男性であっても容姿についてあれこれ言われた経験があると思うが、前回のバチェロレッテと今回のSNSコメントを比較しても分かるように、女性の方が容姿に言及されることが圧倒的に多い。そういう意味で、今回は女性とルッキズムについて語ってみたい。

点数に例えるのはナンセンスだが、容姿とは、人間を構成する要素のなかで、唯一成績表をぶら下げて歩いているようなものだ。例えば、納豆とヨーグルトを毎日食べている私の腸は、全人類における上位20%の美しさを誇るチャームポイントだが、それは誰の目にも見えず評価されない。人は分かりやすいものが好きだ。人の目に分かりやすいものは、手にした時に他者へ価値を示しやすいということもある。ロゴの明確なハイブランドを身に着けたり、トロフィーワイフを獲得したがるのもこの辺の話だ。

こんなことを書いていながら、実は私のなかにもルッキズムはある。美しいなと感じることは止められないし、これまでの経験から、科学的根拠はなくとも、「この顔の系統はこういう性格になりがち」といった先入観もある。私は人類の末っ子でまだまだアホなので、自分のなかに差別意識がたくさんあるのを自覚している。だからこそ、それを乗り越えて思考したり、せめてパブリックで表明することがないように努めている。クズな自分の差別意識を知っているから、それに必死で手綱を付けているのだ。

今回の出演者についても、もちろん容姿についての感想はある。だが、私はそれをパブリックで絶対に表明しない。例え褒め言葉であっても、人間を属性で比較することは尊敬を欠く失礼な行為であり、人を傷つける。そして、ルッキズムに加担することになるからだ。容姿を含む属性で人間を判断することは、その人を物格化するということだ。人間の本質は誰も奪うことのできない内面であり、自ら選び磨き上げてきたものにこそ価値があるし、そのことを忘れずにいたい。

容姿に惚れ込まれる不安

女性は生まれたときから、常に年齢と容姿でジャッジされ続けている。私は目と耳は2つずつで鼻と口は1つずつという一般的な容姿だが、ポーッと見つめられることもあれば、隣の友人に視線を奪い続けられてしまうこともある。また、加齢とともにそんな機会も随分減った。男性の視線はとても不躾で正直だ。容姿に対して「多少自信もあるが、嘉瀬美月氏ほどには自信がない」というのが、だいたいの女性の感覚ではないだろうか。こんなものは基準が1つというわけでもないので、どれだけやっても比較対象が広がるだけで永遠に1番なんてないのだから。

容姿に惚れ込まれるというのは、とても自尊心や優越感をくすぐるものだ。絶対的な自信を持ちづらい領域において、圧倒的な承認をもたらす。愛される期待も高まるが、同時に不安にもなる。容色とは、加齢とともに必ず減っていく資産でもあるからだ。それは例えば、道を覚えるときに幾多あるコンビニや停止中の車を目印にするような頼りなさだ。確かに自分の一部ではあるが、決して本質ではないそれを強烈に認められることに、嬉しさよりもしんどさと疑念がある。「この人は本当に私自身を見ようとしているだろうか」と。

称賛の伝え方

出演者の容姿についてのSNSコメントはポジティブなものが多く、きっと善意から自分の感動を伝えたいのだろうとの思いも伝わってくる。なので、少しだけ人を称賛したい場合のアドバイスをしてみたい。

私は感動を伝えるとき、属性(変えられないもの・選べないもの)に言及しないことに留意している。シンプルなルールで簡単だし、受け取る側も新鮮な発見と喜びになるので、是非やってみてほしい。以前も述べたが、自分の属性のことは本人が一番よく分かっている。繰り返されるそれへの言及はウザいだけでなく、「お前は中身を見る気がないのか」とさえ思われてしまう。属性で総括されてしまうことは「誰々ちゃんパパ・ママ」と呼ばれる侘しさに少し似ているかもしれない。本質を無視しており、相手を尊重してもいないのだ。

例えば、私は「~の行動がかっこいい」「装いが似合っていて素敵だ」「笑顔が素敵だ」と伝えることがある。これは、感動を伝えると同時に、私自身が相手を外見で判断していないというメッセージ性を同時に表現してもいる。

そして案外、私はその方の造形美ではなく、表情としての美を見てもいる。私は、酸味・辛味・甘味が複雑に融合したスープ・トムヤンクンが好きなのだが、人の表情にもずっとそれを探している。例えば、微苦笑、怒りのなかの凛々しさ、苦痛と哀しさ、そんな複雑な表情に人間性や奥行き・色気を感じる事が多い。シンプルすぎる喜怒哀楽には未熟さを感じ、あまり惹き付けられない。造形美に言及するのではなく、人のそんな表情を作り出す感性こそを発見して感動を伝えてみるのはどうだろうか。

バチェラーと出会ってしまったら

読者に未来のバチェラー(バチェロレッテ)出演者がいるかもしれないし、ふと石油王に出会う者もいるかもしれないので、思考実験して遊んでみよう。そして、私が迷いのある藤原望未氏の隣にいたなら、きっとこんなアドバイスをするだろう。人を物に例えるのは悪趣味だが、自分の心を捉えるのにミニマリストの思考法がなかなか有効なので提案してみたい。ちょうど大掃除の時期だし、役立てば幸いだ。

・もしも、自分が億万長者であったとしても、その商品を購入するか
・もしも、その商品を紛失したら再度購入するか
・もしも、その商品を購入した日に戻れても、同じように購入するか
・もしも、その商品を他人に見せる機会がなくとも購入するか
・3年、5年、10年後もその商品が必要か
・その商品は、長期旅行にも常に持っていきたいものか

これらの質問は、別に何が正解・不正解とジャッジするためのものではない。自分がなぜその商品・人物を欲しているかという心を探るためである。他人に見せたいから結婚する、それも立派なひとつの理由だし、本人が納得しているならそれでいい。重要なのは、自分がその選択をした理由を知っておくことだ。それを自覚していて初めて、自分の決断を他人のせいにせず、最後まで責任を持つことができる。迷ったときにでも問いかけてみてはどうだろうか。

さて、ようやく最終エピソードを残すのみとなった。不穏な空気が漂い予測不能だが、出演者がそれぞれ悩んだ上での決断にできる限り寄り添い見守ろうではないか。あくまで我々は傍観者であることを忘れず、良い言葉がSNSに溢れることを願っている。

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※画像は全て、Amazonプライム・ビデオ公式とWarner Bros. International Television Productionより拝借しています。