リアリティショー

バチェロレッテ2 #04-last

はじめに

今回は、epi09-10視聴後のレビューとなります。(アンケートepi01-03epi04-06epi07-08のレビューはこちらから)

最終回の感想は「そっちかぁ~」しか出て来ず、レビューも書かずにすっとぼけてトンズラしようかと思ったが、予想を大きく外しているので、エア土下座をしつつ、そこそこに締めておきたい。

すっかり心が閉じて彼らへの関心を失っていたので、最終回は私にとってAIがペラペラと喋っているような空々しさだった。愛が語られようが「左様か」としか思えない。

本編はほぼ記憶にないので軽く流しつつ、今回は各シーズンの主役について考察してみたい。

尾﨑美紀氏の人物像

(C)2022 Warner Bros. International Television Production Limited

結局最後まで、バチェロレッテがどういう人間なのか私にはよく分からないままだったが、自身のいじめ告白とトークSPで少しだけ彼女に触れることができたような気がする。

彼女は、未知で信じ切れない部分を残す長谷川惠一氏ではなく、マクファーレン氏を選択した。一時の感情に流されず、「実」を取るところに彼女の本質を見た気がする。この経営者然とした損切り胆力と実利の追求は彼女の芯の強さを感じさせる。これはなかなかできることではない。アホな私なら、自分の感情が一体どこまで行くのかとりあえず知りたくなるし、数年後に結局ゼロからやり直すことになりそうだ。着実に歩むというのは、頭がいい人にしかできない。

そして、彼女のずば抜けた客観視が、いじめ経験から来ているのだと仮定すると色々と腑に落ちた。加害のターゲットにされた経験が、360度365日笑顔に繋がり、結果引き寄せるものにまで影響しているとなると、本当にいじめの業は深い。彼女は四六時中気が張って休まらないんじゃないか。

彼女は、自然にリラックスしているような長谷川惠一氏ではなく、自己開示できたマクファーレン氏を選んだ。このことからも、彼女は何か「自分の暗部まで開示する勇気」のようなものに課題性を持っていたのかなと思う。それは過去の出来事を消化して超えたという、ある種の勲章みたいな側面もあるし、己の成長を実感できることでもある。マクファーレン氏の愛は彼女にそんな勇気を与える存在だったのかもしれない。そして、自ら乗り越えてきた彼女のいじらしさや芯の強さが、私には眩しい。

実際やってみたら分かるのだが、自分の苦しかった経験などを表現して外に出すと、妙にスッキリとした感慨がある。「この人には言えた」という思いと、「言葉にできるほど片付いていた」と安堵する思い。私にもそうやって他者や表現の手を借りて乗り越えてきたことが幾つかある。言葉にするのは、それ自体がひとつのセラピーで、だからこそ深い対話ができる人が私は好きなのだろうと思う。特別な人だから言えるという側面もあるが、「ここまで素直に言えた」から特別な人になってもいく。思い返せば、よい人間関係を築いてきた人とは、この循環がうまくいっている。

長谷川惠一氏については、「ほんとに愛してる?」と私も以前から思っていたので、彼女が不安になったのは分かるような気がした。マクファーレン氏の情熱は出どころがよく分からんが熱いのは確かで、その手を取れた彼女はとても冷静に分析していたのだろうと思う。トークSPで最後の葛藤を語る彼女は論理的な思考を重ねており、あの姿に驚いた視聴者も多かったのではないだろうか。

岡村隆史はいらない

トークSPはひたすら面倒くさかった。やたら「リアル~」と繰り返す3馬鹿と、またしても阿部サプライズの長尺だ。いらん。全部いらん。法螺貝を出せ。

そして、ナイナイ岡村隆史はもう3アウトだ。記者発表やオープニングでシーズン1をディスり、終了時にもディスった。福田萌子氏への粘着がウザすぎる。どれ程腹に据えかねているのかは知らないが、比較するのは今回の主役に対しても礼を欠く。彼自体がもう時代に合わず求められていないので、速やかに去ってほしい。

おそらく、男性コンビを入れる関係で男性2人、女性1人になっているのだろうが、女性が男性を選ぶという趣旨から考えると、女性がもう一人いるぐらいがバランスが良いし、添え物ではなくもっとメインで話してほしい。こういう何気ないところにも性別役割がスッと入り込んでいるのが不快だ。なぜ恋愛ボンクラの岡村隆史がメインであり続けるのか理解できない。

バチェロレッテのMCで一番気になるのは、男性陣が頑張っている姿をやたら褒めそやし、持ち上げるところだ。特に、岡村隆史はシンパシーを感じているのか、やや痛い対象をやたら構う。男性の好意をありがたがれと言われているような妙なプレッシャーがある。男性が頑張ろうが、響いてなければ「知らんがな」だし、ズレたアプローチはゴミでしかない。

バチェロレッテが控えめで言語化しないならば、彼の代わりに毒舌の女性MCを配してバランスをとっても良かったと思う。そうすることで、コンテンツの質をもう少しコントロールできたのではないだろうか。バチェロレッテの親友か、似たタイプを連れてきて双子のように推察させるのも面白いし、個人的にはラウンジのバックヤードで実況中継させ、お姉様達が男性陣にクソミソにダメ出しするのを聞いてみたい。

裏バチェロレッテ

いやぁ、面白かった面白かった。本編ではなく、軽々な視聴者達の掌返しが。

趣味の悪い私は、今回もまた「バチェロレッテ」タグで視聴者の反応を追っていた。バチェラー4配信時と同じく、またしても大量のバチェロレッテ・シーズン1懐古者が出ていた。

バチェロレッテ・シーズン1が配信されたとき、「ルールを守れ」という視聴者に対して、「皆さん、そんなに妥協して生きてはるんやなぁ」と私は感心していた。そして、シーズン2で「浅い、つまらん」という視聴者に対して、「お望みのルール通りでっせ」と思っていた。

視聴者とは移ろいやすいものだ。バチェロレッテ・シーズン1からは約2年弱の時が経ち、このタイミングで再評価されている。なんじゃそりゃ。

個人的な分析では、バチェロレッテ・シーズン1は、実質杉田氏の1択だった。福田萌子氏と同じレベルの感受性で話せる人間が彼しかおらず、彼を愛せないなら誰も選べないのは自明であったが、実際このような受け止め方をするには一定の感性が必要で、理解できる者が少数派であるからこそ、あそこまで燃えたのだろうと思う。

さて、シーズン2についても、実は選択肢はマクファーレン氏の1択だったのではないかと私は思っている。尾﨑美紀氏の評価軸は複数あったが、最終的な判断であるところの「愛の表現と行動の一致、信じられる者」としたとき、割と早い段階で1択であったように思う。

別にこの話にオチはないのだが、バチェロレッテは17択のようであって、実際はそうではないのだなぁとしみじみ感じていた。可愛らしく微笑めば、どんな求愛も「好意の丼」に入れてそうなバチェラーとはやはり何かが違う。

ゆるふわバチェロレッテの意義

話のついでにネタバレをしてしまうと、私はこのブログで一番書きたいことではなく、必要だと思うことを書いてきた。配信前のざわついた状況から、尾﨑美紀氏の精神状態を私は勝手に憂いていた。ここまで否定的な意見が増えると、その方向でボロクソに叩く記事を書いたほうがウケるのはアホな私でも分かっている。でも、やらない。

前任者があまりにも眩しかったのは分かる。しかし、本来色んなタイプの女性がいていいし、表面だけとは言え、お姫様タイプのゆるふわ経営者が出てくる事自体が、裾野が広がっているという喜ばしい証拠ではないか。シーズン1の主役が、燻っていた日本女性を強烈にチアアップしたのは間違いないが、その役目をいつまでもバチェロレッテにだけ押し付けていていいのだろうか。そんな自己犠牲を彼女たちに払わせ、代弁させ、私たちはただその変化を享受するだけでいいのだろうか。今度は、私たちが自ら言葉を発し、行動する番ではないのだろうか。前シーズンを視聴していたとき、自分の世代がもう少し行動できていたら、年下の彼女一人にあそこまで重い役割をさせる必要がなかったはずだという、情けない思いも私にはあった。

視聴者が成熟し、世間の受け止めが柔軟になれば、主役はもっと伸び伸びと奔放でいられるし、出演を躊躇しない者も増えるだろう。

今回のショーを機に、「バチェロレッテの初代と2代目どっちが好き?」という、最強のリトマス紙が爆誕した。好み自体はどうでもいいが、初代を「怖い」と表現する男性には要警戒だろう。そこそこ密接な関係になるとあの程度の擦り合わせは必ず生じる。理性的な対話で腰が引けているようでは話にならない。

バチェラー達もペラッペラ

初代バチェロレッテと比較した否定的な意見が多く見られたが、そもそもの比較対象が間違っている。福田萌子氏は異質と言っていい。バチェロレッテ2だけでなく、バチェラー4も低調のまま終わったように、今後のバチェラーにおいても彼女を超える傑物は二度と出て来ないと断言できる。細かい分析を交えて、説明していきたい。

ホスト役他者への興味論理性感受性言語化一目惚れ人物像
バチェラー初代
久保裕丈氏
王子
バチェラー2
小柳津林太郎氏
吟遊詩人
バチェロレッテ初代
福田萌子氏
女王
バチェラー3
友永真也氏
ボンボン
バチェラー4
黄皓氏
継承権6位
バチェロレッテ2
尾﨑美紀氏

私の印象ではざっとこんな感じだ。まずショーとして見た時、ホスト役を理解していたか否かで大別できる。初代バチェラーは人物的には無難な印象で、第1回という手探り状態のなかでも、台本の助けを借りてホスト役に徹していたと思う。この頃はデート回数が多く見せ場もしっかりあり、番組としてはまずまずの観測気球になった。

特筆すべきは、2代目バチェラーの小柳津林太郎氏と、初代バチェロレッテの福田萌子氏だ。彼らに共通するのは、他者への興味と完璧なホスト役、そして論理性と感受性のハイブリッドであることだ。さらにバチェロレッテ1には杉田氏という、同じく感受性、言語化能力を備えたサブキャラまでが充実していた。そもそも彼らのような存在が稀有である。結論から言えば、もう彼らのような主役を期待したり、比較したりしないことだ。そうでなければ、もはやバチェラーシリーズは楽しめないだろう。

一般的に、論理性と感受性はいずれかに傾くことが多い。例えばバチェラー4の黄皓氏は論理性には優れていたが、他者への興味がないため深掘りされず、感受性が乏しいので独自の表現や深い魅力がなかった。今回初回落ちとなってしまったが、横山竜之介氏などは感受性に傾いているタイプだろうと推察する。仮に彼を主役に据えると、言語化されたところで抽象度が高すぎて、それはそれで視聴者は理解ができない。このバランスが難しい。さほど感受性がなくとも役割を理解していれば、久保裕丈氏のように無難に主役を務めることはできるはずだが、バチェラー3以降、主役にホスト役という自覚が全くない。

「論理」はある程度の共通認識であるが、「感受性」は己の中にだけ発生し、表現しなければ伝わらない。そのため、感情を言語化できる人物だけが特別になる。そして、彼らのような存在を見つけるのにも、やはりそれなりの感受性が必要になる。制作陣を煽るようなことを書いてしまうが、旧態然とした凡人では彼らを発見できない。

価値観の変革

良くも悪くも、バチェロレッテ・シーズン1の配信前後で、人々の価値観に大きな変化が起こっている。「抵抗勢力が大きいほど革新的であることの指標になる」と耳にしたことがあるが、バチェロレッテ・シーズン1も同様だ。福田萌子氏が出てくる以前に、「言語化能力」がこれほど取り沙汰されたことがあっただろうか。それまで誰も気に留めなかった能力が新たに脚光を浴び、人間性を示す新たな指標に確かに加えられた。しかし、制作陣の理解と能力が新しい価値観に追いついていない。

言語化能力は百歩譲って不問としても、主役の表情が笑顔一辺倒である今回のショーは、主役の心の変化に対して視聴者が置いてきぼりのままで、ながら視聴しなければ間が持たない低品質に成り下がった。可処分時間の奪い合いが激しい現在、これではなかなか厳しい。映像表現として語らずに見せたいのであれば、せめて豊かな表情が必要だ。

尾﨑美紀氏と黄皓氏は酷似している。両者の表情は強いコントロール下にあり、尾﨑美紀氏は言葉を絞り、黄皓氏は多用する違いがあったが、いずれも言葉に本質がなかった。「表情の乏しさ」と「感情の言語化ができない」、この2つのカードが揃ったとき、ショーは最悪につまらないものになる。

2シーズン続けてこの失態ということは、制作陣は価値変革を理解できていない。このままでは、今後バチェラーでは闇雲に過激化路線を突き進み、ラグジュアリー感はどこへやら、ひたすら低俗で下衆なものになっていくだろう。

早瀬恭をどうするか会議

シリーズ参加者で過去一できる男(多分)、早瀬恭氏をもっと見たい。かと言って、R25やNewsPicksなどの安メディアにこすられて消耗されたくもない。結局は、彼が自分で発信するのが一番いい気がする。1時間ぐらい適当に喋ってもらえれば、彼の落ち着いた声は睡眠導入剤代わりになりそうだ。

必要な文脈なので敢えて言及するが、バチェラーとして彼を起用するには、男女の年齢差がグロテスクになりすぎて、あらゆる論争を巻き起こし、不用意に彼や周囲を傷つけるだろうと思う。恋愛や結婚に年齢が関係ないのはその通りだが、バチェラーに応募する女性のほとんどが20代で、いまだかつて40代女性は参加したことがない。阿部大輔氏のような存在がバチェラーで許されたかと想像するだけでも、バランスをとる難しさが理解できるのではないだろうか。

そもそも彼はあまりバチェラー向きではないと思うので、Netflixよ、彼をさらってしまえ。彼はラブ・イズ・ブラインド向きだ。採用・人事に関わる仕事をしてきた彼がどう見極めていくのかはきっと見応えがある。ルックスや肩書という強いカードを使わずとも、きっと彼は女性を次々と腰砕けにして無双するだろう。そんな彼が見てみたい。とにかく声がいい。声がいい。頭がいい。声がいい。

そして、次期バチェラーには田村一将氏を推したい。表情豊かな彼は見ているだけで楽しく、場を回す力量もある。なんなら港区ドメスティックで開催しても、きっと彼は完璧にホスト役をこなし、温かい回になるのではないかと思う。彼の鼻の下が伸びているのは、それはそれで愛嬌だし、花を2~3本摘んでもいいんじゃないか。知らんけど。

バチェロレッテ2040@メタバース

私がいつまでこのブログを書いているのか分からないが、未来のバチェラー・バチェロレッテがどんな世界観で実装されるかを妄想することはよくある。

少し前に、ナイキがメタバース(仮想現実)で仮想スニーカーを展開したと話題になった。現在はまだ投機的な意味合いが強いが、徐々にメタバース経済圏が拡大している。今後さらに充実し、ゲームだけでなく、我々の生活ソフト面とも強く融合したとき、アバター同士はどんな人間関係を築いていくだろうか。仮に、生命維持に関するハード面以外の、仕事や娯楽の大半をメタバース経由で執行するようになったとする世界観だ。

メタバースで特徴的なことは、属性から自由になることである。現実世界の強者がメタバースの強者とは限らない。まず、物理的なパワーがメタバースには存在しない。きっと金銭的な殴り合いは同じように発生するだろうが、例えば、美醜・年齢・人種・性別など、人間を窮屈に縛り付ける属性から完全に自由になれる。女性はもう男性に殴られず、支配されない。アバターで入試や入社面接を受けるとなれば、地殻変動が起こる可能性もある。

VR技術やアバターの精度が格段に上がっているという前提だが、その世界観でバチェラー・バチェロレッテをやってみるとすごく面白いのではないかと思う。まず2ヶ月という撮影調整のための期間が必要なくなる。

アバターが本人を投影しているとは限らない。私なら、マ・ドンソク並のマッチョに擬態してブイブイ練り歩く。美醜・性別・年齢も確かではない世界で、一応の美男美女アバターを集めたバチェラー・バチェロレッテ。カオスのなかで泳ぎ切る姿を見てみたい。

あとがき

今回、ショーと並行してバチェ民のコミュニケーションが活発化しているのを観測していた。どこからでも面白そうな場面を探しては楽しもうとするガッツある姿勢がバチェ民の特徴だが、もはやバチェラー・バチェロレッテの配信はじゃれ合うための祭りになっており、主役の悪口を言わず、いてくれたらいいという愛ある姿勢にもほっこりしていた。

そして、Twitterのスペース機能を活用したコミュニケーションは、リアリティショーに新たなタームを作ったと言える。早瀬恭氏の後宮に末席を連ねる私も、話題になっていたアーカイブを拝聴したところ、とても面白かった。美声は1倍速で聞いても、1.5倍速で聞いても美声なんだなぁと妙に感心もしたし、心地よさに寝落ちもしていた。

今回のように薄味なら配信時が一番の攻め時であるし、機を捉えた爆発力のあるプロモーション装置であるスペースには可能性を感じる。今後リアリティショーは相互に影響しあい、変化していくのかもしれない。

さて、そろそろレビューを閉じようと思う。最後までお付き合いありがとうございました。いつかまた、別の祭りで。

※画像は全て、Amazonプライム・ビデオ公式とWarner Bros. International Television Productionより拝借しています。