リアリティショー

バチェロレッテ #03

はじめに

今回は、epi07とトークSPを視聴した時点でのレビューとなります。
epi01-04の感想epi05-06の感想はこちらです)

ここに来て、ご両親に会うシチュエーションの影響か、大きく感情が振れた場合を除いて、萌子氏の表情が読み取りづらくなってきたように感じました。

今回は、まず福田萌子氏について深く掘り下げ、その後、人物を主軸にエピソードを追っていきたいと思います。

福田萌子氏の言語センス

彼女の登場で一番注目が集まっているのは、何と言っても彼女の言語センスだ。凛とした佇まいと深い精神性に多くの者が一瞬で魅せられてしまった。

そんな彼女を象徴するキーワードは「内向性」「言語化」と言える。

内向性とは、性格特性を表す心理学用語で対義語に外向性(型)がある。簡単に言うと、刺激を楽しみ人と一緒に過ごすことでエネルギーを得られる人間が外向型で、強い刺激が苦手で一人静かに過ごすことでエネルギーを充填する人間が内向型と定義されている。両者とも逆の型を実践すればエネルギーを失い疲労する。コロナ自粛でショボーンとしたのが外向型で、レッツ・エンジョイしたのが内向型だ。

たいていの人間は成長過程で反対の要素をゆっくりと獲得していき、グラデーションのようになっており、内向型人間の数は30%とも50%とも諸説がある。我々が暮らす資本主義社会はマジョリティである外向型向きにデザインされており、サバイヴするために偽装している内向型も多く存在する。(e.g.藤井氏)

これらの性格特性は、陰キャ・陽キャ、根暗・根アカなどとも表現されるが、実態は少し異なる。内向型は目立つことを好まないが、アリの巣を棒で突くような陰湿さを持つ訳ではない。緊張する場ではコミュ障と言われる反面、自分の安心できるテリトリーでは社交的で饒舌だったりする。

どちらがどう優れているという話ではなく、両者の型はそれぞれに得手不得手なものが存在し、これらは生まれつきのドーパミン受容体の差異による生体反応の違いであり、そもそも自分で選ぶことができない。(詳細はスーザン・ケイン「内向型人間の時代」など)

マイノリティである内向型が生きづらさなどの葛藤を内省的に模索しながら、文学・芸術・音楽などにぶつけていくのに対して、外向型に近づくほど、よりマスに直接アプローチするような舞踏や映像などの複合芸術に携わっていることが体感的には多いように思う。

外向型がスイスイと人間関係を楽しそうに泳いでいくのに比べて、内向型にとってその世界観は「進撃の巨人」に近い。刺激に対する解像度と耐性が両者ではかなり異なり、外向型にとってのそよ風程度の出来事が、内向型にとっては暴風雨のように感じるほど刺激に対する感受性には開きがある。ここでは割愛するが、決して外向型が鈍感であるということではない。外向型には深い親愛や共感を示す別の素晴らしい感受性がある。

さて、これらの前提を踏まえて、萌子氏に話を戻し、彼女の言葉を紐解いていきたい。
彼女の言葉を単語にまで分解してみると、過剰に装飾性のある単語を使っているわけでもなく、実際に私達が普段使用している単語と変わらない。にもかかわらず、なぜ彼女の言葉は、脳をぶっ刺して心にまでダイレクトに到達するのか。それは、彼女の表現の向こうに人生観や哲学までもが感じられるからではないだろうか。

彼女は絶対に人を傷つける言葉を使わず、勇気づける言葉だけを用い、必要なことだけを話す。それは、彼女が内向性の特性を持ち、どれほど傷や痛みに対して敏感で繊細な感受性を持っているかを示している。

言語とは、それにまつわる全てを誰もが後天的に獲得してきたものだ。つまり彼女は、繊細過ぎる感受性で幾度も傷つきながら、同じ痛みを人に与えないように、あの言語センスと社交性を獲得してきたと言える。「彼女は強いからまっすぐに主張できるのだ」といったような指摘は的外れである。彼女は特段強い女性ではない。ただただ自身の信念を支えにして、勇気と覚悟をもって発言している。そんな「言葉の力」があまりにも強いのだ。混同してはならない。

そして、彼女の言葉の特徴に「書き言葉」言語化の的確さとレスポンスの速さ」が挙げられる。これは同等の言語センスを持つ杉田氏についても言えることだが、彼らは頭の中で絶えず思考を重ね、文章を推敲しているような気配がある。

多くの人間が「金魚金魚!(epi01)」と単語を叫んだり、語尾を伸ばしながら単語を繋げ、相手の反応や空気を織り込みながら共感「話し言葉」を紡いでいくのとは対照的に、彼らは自らの思考だけで練りきった推敲後の「文章」を話す。これがとてつもない重量感とインパクトで我々に迫ってくる。

言語化の的確さと速さは、発露に至る以前に何年も絶えず思考を重ね蓄積されているからこそできることで、彼らは幾重にも検討された結果を状況に合わせて引き出しているだけに過ぎない。

また、レスポンスの速さからはもうひとつ副産物的に説明できることがある。それは嘘の回路を通っていないことだ。嘘を成立させるには、辻褄合わせのために脳に多大な処理コストがかかるが、視線の揺らぎもなく、あの速さで繰り出される言葉には余分な加工処理がなされていないことが明白だ。真実の言葉が持つ力は大きい。

福田萌子氏の精神性が、このような繊細な感受性と言語センスに裏打ちされ、手を繋ぐことを躊躇う程の潔癖さを持っているからこそ言えることがある。epi07ローズセレモニーでの杉田氏への当て馬説はありえない。彼女は「ハグ」ではなく「抱きしめていいですか」と聞いている。黄皓氏のお母様の「心に従え」の言葉を受け、岡村氏が言うように、杉田氏に親愛を返したいという思いと、彼に触れ彼を感じ、考える時間を確保するために、できるだけ早い段階で自分のこころを知りたかったのだろうと思う。

最終結果によっては、当て馬のように作用してしまう可能性はあるが、それは決して意図したものではないはずだ。そこら辺の量産型女子が模倣しているようなモテテクや駆け引きなどの発想自体がそもそも彼女にはないだろう。実際にやってみたところで悲惨な結果になるのは、私達もepi06で見たところだ。

彼女が恋愛面をはじめあらゆる事において、まっすぐな自分を示す以外の術を持たず不器用なのは明らかだ。彼女は人間相手にゲームなどしない。そして何より、卑怯なことをする自分を彼女自身が許さないだろう。自分のすることは必ず自分が見ている。自分の体と精神を大切にし、誇り高くあろうとする彼女は、自らその魂を損なうようなことはしない。

杉田陽平氏

©2020 Warner Bros. International Television Production Limited

アトリエで作品を作る二人の様子からは、萌子氏がしかけつつ甘えているようにも見える。杉田氏に対して、どの程度自分の腕をぶんぶん振り回し、自由に振る舞って大丈夫なのか懐の深さを確認している節がある。いつもと違う表情の杉田氏のすぐ隣でじゃれるように笑う彼女は少しドキドキしているのか楽しそうだ。「私空気入れるタイプなの」と言った彼女の表情もまた、心がじゃれついているようでとても可愛らしい。

食卓を囲むご両親の清潔な目と、お父様が嬉しそうに魚拓を自慢しながら持ってくる様子を見て、杉田氏の人間性が本物だとより確信できた。この家族は、物質的なものではなく経験を宝物だと自慢するような感性なのだ。杉田氏の佇まいは、どこか美しい公園をゆったり散策しているような趣があるが、そういった感性は確かにこの家庭で育まれたものなのだろう。

そして、おっとりした羊のような3人を守るように、ひとり気を張っていたお姉様が、失礼な表現になるが、虚勢を張るチワワのように健気で愛らしい。ずっとそうやって支えてきたんだろうか。家族全員で見送るときには柔らかい笑顔に変わっていて、きっといい時間を過ごせたのだと感じた。

林檎の樹を植えると聞いたときの萌子氏の表情は時間が止まったかのようだ。あの長い一瞬の間には、大きく枝を広げて葉をつけた木陰で佇む二人と、周りをかける子供の姿までが見えるような気がした。

杉田氏の想いを聞いた彼女は感情が溢れ、その後必死に気持ちを抑え込んでいくときには、口を一文字に引き締めもう笑顔を作る余裕さえない。心の震えがこちらまで伝わってくる。彼の前ではどこか子供のようだ。

その様子をみて、ひとつ検討し忘れていたことも思い出した。彼女のような感受性の強い人間は、心に揺さぶりをかけられることに、喜びと同時に疲労や恐れを感じていてもおかしくない。彼女は自分の心が整わないことの苦しさをとてもよく自覚していて、スポーツに没頭するのも心のリバランスが要因として大きいように思えるからだ。

私自身は、林檎の樹を植えるという杉田氏の感性に、頭がしびれるような衝撃があった。「あなたの選択が何であれ、私はこの経験を慈しみながら人生を歩む。私はあなたの幸せを祈っている」そんな彼のメッセージが聞こえたような気がしたからだ。彼は萌子氏の心の一番柔らかいところにそっと触れ、生涯枯れることのない樹を植えた。

誰かに大切に想われた記憶は、たとえその時に応えられなくとも、時を経て孤独で苦しい夜を守ることがある。彼が贈ったのはそういうものだ。

「世界のどこかに林檎の樹がある」そう思えることが、今後萌子氏を幾度となく支えていくだろう。木陰がなければ、人は世界の眩しさにたじろぎ、俯いて歩くことしかできない。

なんとなく二人を見ていると、マニアックな例えになってしまうが、サトラレ同士がコミュニケーションしているようだなと思うことがある。「サトラレ(佐藤マコト作)」は思考が全て周囲にダダ漏れになってしまう人間(サトラレ)のことを描いたコミックだ。サトラレは本人が自認してしまうと絶望して生きられなくなるため、周囲の人間はサトラレの思念に気づかない演技をして暮らしている。そのなかで、隔離されていたサトラレの親子が出会ってしまい、頭の中にある研究データを思念のみで受け渡すシーンがある。あれにそっくりだ。

二人の高度な言語センスによるやり取りは、その目の奥にある思想・人生観・哲学までリーチし圧倒的な情報量を互いに読み取っているような、空中で精神が触れ合うような濃密さを感じる。彼らのような人間はそもそものレア度が高く、現実世界で出会うことは本当に稀だと思う。出会えたこと自体が、自分の存在が世界に許されたような喜びをもたらしただろう。

そういった意味で、伝えた想いを萌子氏があの究極の表情で受け取ったことは、最終的な答えが何であれ、既にこの時点で杉田氏にとっては意味がある。それは、自分の想いが一切欠けることなく「そのままの重さ」で彼女に届けられたということだ。「伝わった。伝えられた」という充足感に加え、「確かに心に触れた。そして、自分を理解する人間がこの世界にいる」という事実が、今後の彼の人生に絶えず勇気を与えるだろう。杉田氏は心を差し出してばかりのような印象があるが、萌子氏の存在から受け取っているものもまた多い。

萌子氏は、ランタンデートの最後を花火に遮られて以来、パブリックな場でのサプライズローズを除くと、個別に自分の気持ちをまだ伝えていない。そして、あのときすぐに応えることも躊躇っていた。私は、彼女がずっと頭の中で彼への長い手紙を綴っているような気がしている。自分の心を正確に写し取るような言葉を丁寧に探しているのではないだろうか。

黄皓氏

©2020 Warner Bros. International Television Production Limited

実際そうなのだと思うが、企業CMのような映像は完璧なアングルだ。合コンサポーターを配置した会議室でふんぞり返る黄皓氏はとてもリラックスしていてホーム感満載だ。

つい嫌味なことを書いたのは、この会議室でのやり取りにどうにも既視感があったからだ。(1)女性がアイデアを話し(2)男性がそれを鷹揚な態度で褒め(3)そしてそこで話を終わらせる。このサイクルだ。epi03の生花デートでサーファー萩原氏が、日本のスポーツ教育について萌子氏と話していたシーンを覚えているだろうか。あれと同じことがここで起こった。この一連の流れを仕事で経験している女性も多いのではないだろうか。

アドラー心理学でも散々警鐘が鳴らされているが、「褒める」行為の弊害とグロテスクさについてここで確認しておきたい。

「褒める」というのは、対等と捉えている人間同士では起こらない現象だ。必ず「上」だと自認した人間が「下」だと見ている人間に向けて発動する。親から子がその代表格だ。

言葉のニュアンスが細かくなるが、「褒める」「感動を伝える」は似ているようで本質が異なる。主語を省く日本語では同じ文になることもままあるが、iメッセージとyouメッセージと捉えてもいいかもしれない。

生真面目に意見を出した彼女を褒めたのは、アイデア自体に感嘆したわけではない。褒めて承認してやることで、結果的に自分を上だと暗に知らしめコントロールするのが目的で、意見を受け入れる気などさらさらない。それは萌子氏と彼らのテンションの差からあからさまだ。

加えて、部外者との認識で聞く耳もないのに(0)わざわざ女性に水を向け、無償で思考を奪うことが二重に醜悪だ。おそらくこの(0)~(3)の流れが、あの合コンチームの定番女子アゲ連携プレーであって、会議の体を装った接待に過ぎない。これをコミュニケーションだと思っているのなら、人の時間を奪って捨てているだけなのでやめたほうがよい。

萌子氏の代わりに、あそこに男性が座っていたとしたらどうだろうか。この場の空気は成立しただろうか。そもそも、このような会話の流れが許されただろうか。

萌子氏は、まさか挨拶代わりに無意味で不誠実な傾聴ポーズをとられることがあるなどとは、思いもしなかっただろう。ピュアな彼女は「誰がどんな意見を出したか」等のホモソーシャルで意識される手柄にさえも興味がなく、まずは自分がたたき台を示した上で、お互いにどんどん意見を出し合って議論して、もっと面白いアイデアを化学反応で導き出したかったのだと思う。こういう場で(4)違うアイデアや視点、深堀りした質問や意見を被せてくる男性は見込みがあるが、ヘルジャパンにおいてその生息はほとんど確認されていない。

このやり取りと、黄皓氏の「女性ってギャップに弱いって言うんで」「女性同士で」発言から見えてくることがある。
彼は「女性」を、どこかファンタジーな自分とは一線を画する生き物だと認知しており、女性も男性と同じく個々で多様な人間であるということを本質的には理解していない。そのため「女性」として、ひとくくりに雑カテゴライズしてしまうのだろう。そして、このような男性はホモソの群れを率いていることも多く、その力強さが魅力的に見えてしまうのも危険な事実だ。

この男子校を煮詰めきったような思考と態度は、人権意識の貧しい社会構造をすくい取って無意識下で長年培われてきたものであり、別に彼が特段の悪意を持って頑固に保持しているわけではない。だからこそ、OSのコアな部分に浸潤しているこの思想は容易に取り除くことができず、この問題は根が深い。

萌子氏はスポーツトラベラーという新しい職業を自ら作り出している人間だ。私はこの背景には、彼女の好奇心・冒険心に加えて、ジェンダーギャップや閉塞感の強い日本社会への適応が難しかったことがあるのではないかと推察している。そんな彼女はこの状況で何を感じただろうか。

このような根源的な食い違いは、即日影響を受けるわけではない。長い時間をかけてジワリジワリと発露していく。現実として、黄皓氏の他の魅力がそれを覆い隠すため、日常生活をやってやれないことはない。彼は物理的には女性を丁寧に扱うだろうからだ。相手の深い部分にぼんやりとした違和感や疑問を持ったとき、とても判断が難しい。個人的な経験では時限爆弾と同じでたいてい駄目になった。物質的な充足の後は必ず精神的な充足を求めるようになる。すぐに言語化できないだけで直感は正しい

そして、そんな黄皓氏自身が未だパートナーについては「女性」という以外、具体的に何を求めているかが見えてこない。自分の心身を満たすような性愛の対象として横に並ぶのではなく、確固たる自分自身に「足すオプション」としての安定した配偶者を求めているだけのような気がしてならない。パートナーとなる女性にも自分と同じような人生や背景があり、その重みを持って側にいてくれるのだという認識がないように思う。

さて、黄皓氏の自宅に舞台を移したい。気になっていた萌子氏の正面ポジションは、思っていたような不穏なものではなく安心したが、彼の唐突な「女性同士で」退出には驚く。あのとき、萌子氏が結構長い時間、下から甘えながら拗ねるように見つめていた視線の意味を彼は理解しているだろうか。

「言わなければ分からない」はもちろん正論ではあるが、生活はビジネスではなく、愛は想像力そのものだ。あまりに察しが悪い人間とは長い時間を共有できない。

彼にしてみれば、女性同士の方が話しやすいだろうという純粋な善意だったのだろう。悪気なくファンタジーを信じる男性のなかには「女性は皆仲がいい」と雑に考えている場合も結構多い。そして複雑なのは「女性」を特別視する反作用として一見丁寧に扱うこともまた事実なのだ。しかし、この状況で視線の意味が分からないなら、やはりセンスが足りないだろう。おそらくビジネス面では発揮している観察眼が彼女に向いていないのは寂しい。

経緯はどうあれ、結果として萌子氏はゆったりとした空間で聡明なお母様との会話を楽しんでおり、これはこれでいい出会いだったように思う。彼女の初恋同士の運命的な結婚への並々ならぬ執着は、苦しかった恋愛経験でも背景にあるのだろうか。どうも黄皓氏の添い遂げ遺伝子に期待している節がある。

黄皓氏との未来は、彼らの両親の結婚生活をそのままコピペで再現できる安心感がありそうだ。そして、彼の常に安定した振る舞いや家庭環境のフォーマットからは、彼の行動や反応が全て彼女にとって予測範囲内であり、またそれに反応する萌子氏自身の心も予測範囲内となりそうだ。これは感受性が強い彼女にとって、もしかしたら心休まるポイントなのかもしれない。

そして、恋愛沸点の高そうな彼女が楽しそうにしている姿を見ていると、ときめき自体がとても貴重なようにも思えてくる。恋愛感情は、ある種得がたい嗜好品のような要素もあって、相手の気持ちがしっかりとは掴めないが、憎からず想われているような探りの時期が一番楽しかったりもするし、こういう時期には形式的な言葉にも縋りたくなったりする。そのあたりを彼女がどう決断するか見届けたい。

當間ローズ氏

©2020 Warner Bros. International Television Production Limited

私は彼を少し見誤っていたかもしれない。
恋する瞳を大人の男性がするような「酔うような少しトロンとしたもの」と定義し、彼の瞳がその基準を満たすことはなかったため強い想いではないとずっと思っていた。

彼は博愛を恋だと表現しながら、演出に溶け込んでいるだけだと思っていたのだが、どうも彼の別れ際の瞳やスタジオでの表情を見ていると、それなりに想いがあったようにも感じられ、最後の最後に仮説が揺らいでしまった。

もしかしたら、彼は少年のような無邪気な感性で恋をしていたのかもしれない。どうもスタジオで萌子氏を見つめる目が純粋で幼い感じがするのだ。お母様や家族との深い結び付きをもつ彼だからこその感情かもしれない。また、兄弟達が子供らしい目と表情をしていたことも推察の根拠として大きい。私のなかにこういう目で見つめられたサンプルがなく気づけなかった。この視線を知っている方が羨ましい。

ローズ氏にまつわる映像は、スタジオにお母様が登場する流れを含めてずっと演出臭がぬぐえない。そして、PVや沖縄で見せた色気も、デフォルトであれなら本気になればもっとすごいだろうとなどと思っていたのだが、スタジオで萌子氏の横に座る彼には、驚いたことにほぼ色気がなく、少年以前に子供のようだ。あのPVや彼の衣装自体が本質とかけ離れている可能性に気づかず、まんまとバイアスがかかったまま視聴してしまったように思う。

もはや彼自身の生活サンプルを取り直さないことには、彼の想いがどの程度であったか逆算できそうにない。すっかり混乱してしまって完敗。

萌子幼稚園

スタジオトークに登場した萌子氏は堂々の佇まいで、今まで発言力があると思っていたSHELLYさんの存在までが霞むほどの圧倒的な存在感だ。

それが気になるのか、お笑い的なタイミングなのか、ちょいちょい岡村氏が萌子氏の会話を遮るのが相変わらず邪魔だ。藤井氏の話題で「だいぶやられました」「また言われてますやん」など、例のごとくミソジニー語録も更新されていく。

やはりここでも萌子氏の圧倒的な言語センスが男性陣を焼き尽くす。彼女と消し炭との成熟差が明確すぎて、ちょっと見ていて恥ずかしい。早めに転生したほうがいい。

男性陣のなかでは、登場する萌子氏から思わず視線をはずしてしまう侍・五島氏の眩しそうな目と、ヒトデ・下山氏の艶が入り心酔したような目で静かに彼女を見つめる姿が印象に残った。彼らは本当に彼女に惹かれていたのだと思う。

下山氏から萌子氏への「孤独な闘いで新しい発見はあったか。何を感じていたか」との質問と回答に聞き入る様子からは、別れの後も彼がずっと思考を重ね続けて来たことが伺え、少しでも彼女の考え方からヒントを得たいとする尊敬や信奉に似たものを感じた。
あの短い間に彼の感性は彼女に触発され、以前とは別人のように目が深くなっている。ゆったりと落ち着いた所作は色気をまとい、ついつい目で追ってしまった。彼は今日にでもモテ期が始まりそうだ。

さて、ようやく最終エピソードを待つのみとなった。どんな結論であろうと、彼女の言葉に耳を傾け、彼女の心映えに応えるような美しいコメントがSNSに溢れていたらいいなと思う。

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※画像は全て、Amazonプライム・ビデオ公式とWarner Bros. International Television Productionより拝借しています。

「言語能力と教養」

少し切り口が異なりますが、自身の経験をもとに内向型の方向けに、言語について書いた記事です。