THE BOYFRIEND 2
はじめに
このレビューは未完です。しばらく放置していた結果、もう当時の感情が戻らないと思ったので、歪な構成のままですが、当時この作品を通じて共有したかったことをアウトラインだけでも残しておくことにしました。書きかけの文章をそのまま出すのは恥ずかしいことですが、ズボラにとってそんなことは今更のような気もいたします。
※この四角で囲っているところが、放置された文章を見ての、今の私のコメントになります。宿題忘れを延々と言い訳するような内容になっております。
シーズン2全15エピソードを一気見した。前作を上回る圧倒的なクオリティに心と脳が動いた。恋リアはもうこれだけでいい。ありがとう、MEGUMI!最近おんなじセリフを言ったような気がするが、昨日の私は違う私。手のひらはクルックル返していきたいし、そもそも子豚に手のひらはない。
今回のレビューは、人物や事象の深堀りではなく、「このシーンでこう感じた、こういう事を考えた」という内容になっていて、もはや脱線が主体になっているが、それで良ければどうぞ召し上がれ。
シーズン1のレビューを書かなかった理由
作り込みが過ぎる点を除けば、ゲイの実存を受け取りやすい「キレイな形」で見せてくれたシーズン1も良作だった。
それでも私がレビューを書かなかった理由は、SHUNの一言が遠因で、それがある意味トラウマ化していて、一応最後まで視聴したのだが、あまり記憶が残っていないし見直す気もない。
うろ覚えなので正確ではないが、彼は家族の話題で、異性愛間・実子のそれを「何の瑕疵(不可?)もない家族」と表現していたかと思う。これを聞いたときに、頭を金属バットでフルスイングされたようなショックがあって、その後もずっとこの言葉が頭の中をグルグルし続け、ショーの展開はどこか遠くなって集中することができなくなった。なんだかとても悲しくて、苦しくなってしまったのだ。おそらく、今回カミングアウトの場面でJOBUが感じていたことと近いのではないかと思う。
クリスマスの窓

子供の頃、クリスマスが近づくと母親が必ず読んでくれた絵本がある。繰り返しページがめくられるうちに違和感を覚えた。おそらくそういう意図の仕掛けが施されていたのだろうと思うが、幼い自分がこれに気づけたことが今でも誇りだ。
街中が温かい光で灯されていくのに、雪の降る絵はどこか寂しく、飾り付けられた室内の挿絵には窓枠があった。「この子、そとにいる」
クリスチャンである母親は時折こういう教育をする人で、その多くは未就学児までに叩き込まれた。子供を産み育てたこともない私が偉そうに言うのも口幅ったいが、教育ほどロングパスのものもないなと思う。幼児の私はほぼ動物のアホだったので、「サンタさんが来ない子もおるんや?」だけで完結しており、その深い意味や背景などを想像することはなかったのだが、その挿絵だけがずっと記憶に残っていて、人生のところどころで、他者の視点として返ってきた。
マイノリティの見ている社会は、こういう感じなのではないだろうか。見かける人々は暖かい部屋に守られて幸せそうだが、窓の外に弾き出されてしまっている自分という存在。マジョリティ側にルールを設定され、権利を「与えるか」という傲慢な議論を繰り返される屈辱。そこは寒い。
私はオープンゲイ以外の方から個別にカミングアウトしてもらった経験はないが、出会ってはいるだろう。関係性がそれに満たないものであったのかもしれないし、あるいは友人ではあっても信頼してもらえなかったということかもしれない。
そんなとき、意図せずとも自分だけが入れる暖かい部屋を見せつけ、刺していたこともあるだろう。出演者の実存が与えてくれるのは窓の外からの景色そのものだ。この作品には現実を動かす力がある。
眼差しのなかにHIROYAがいる
ゲイの世界に関わったことがない者は、解像度が低い故に「ゲイ」と一括りに雑カテゴライズしてしまいがちだ。私自身もそうだ。HIROYAの存在はそれを可視化し、また、私のなかにもある差別意識を浮かび上がらせ自覚させてくれた。シーズン2は見どころも多かったが、一番考えたのはHIROYAのエピソード周りのことかもしれない。自分の中に深く潜っていこうとしたし、最終的には記事を放棄するほど明後日の方向に旅立ってしまった。下書きはこの見出しを最後にぷっつりと途絶えていたのだ。
WILLIAM
WILLIAMって、もしかして凄く親しい方を亡くしているんだろうか。そんなことを思ってしまうほど彼の哀しい瞳が気になって気になって仕方なかった。シーズン2で目の表情を一番追いかけていたのは彼で、書きたいこともたくさんあったけど、忘れちゃった!
TAEHEON
今回、話数を重ねるごとに居心地が悪くなったのだが、それはTAEHEONの行動が自分にやたら似ていたからだ。正確に言うと、TAEHEONとHUWEIを7対3、あるいは6対4で混ぜたのが自分のようで、いやぁ、見てられない、見てられない。あれは私に言わせてみれば姫ムーヴではなく、末っ子ムーヴだ。感情をぶつける時点で、自覚はないがもう心の中に入れ始めていて、滅多にないことなので戸惑いもあって、自分の心の門番に仕事をしろと怒りも出てきて混乱しているところだ。好きな人の前ではクズ。それがTAEHEONで、さらにHUWEIの朴念仁ぶりを足したのが私。ヤベェ。
私の人生にもJOBUに似た太陽のような人がいて、今でも思い出すと泣いてしまう。ああいう存在の前で、自分はすごくちっぽけで情けなくて、どうやって立っていいのか分からなくなる。素直さと眩しさに焼かれて拗ねた我儘な末っ子になってしまう。そんなことをたくさん書こうと思っていたような気がする。
肌を重ねることで埋められる隙間も確かにあるが、安直な解決で深まっていく溝もある。相手に期待しなくなる。通じない絶望。自分の記憶が蘇ってきて、これから起こることの予測もある程度つく。でも、それがどうしても必要な経験だったことも知っている。別れるために出会うこともあるから。
後は、自分には「誰かといて幸せ」がないというテーマも書いてみたかった。それは朝目覚めて、さっきまでたゆたっていたはずの夢が消えてしまうような、鼻をくすぐった香りの記憶を探っているうちにそれ自体が消えてしまうような幻想。そういう風に世界を捉えてしまうことがあって、これはまたいつかどこかで書きたい。
JOBU
彼のカミングアウトの場面での行動が、きっと私も同じだなぁなんて思いながら観ていた。これを書くこと自体がやはり見せつけることになるかもしれないが、「分からない」ということを伝えたいので、簡単に残しておきたい。
何というのか、仮に私が何らかのマイノリティであったとして、それをカミングアウトする必要性を特に感じないというのが偽らざる本音だ。「当事者でないから気軽にそう言えるのだ」というツッコミは、まぁ真っ当だろうし受け止める。
だが、まぁ言ってみれば、変えようのないことを改めて伝えること自体が無意味にも思えるし、「理解してもらいたい」という感情が自分には薄い。家族であっても他者なので、葛藤を植え付けることへの躊躇もあるし、その様子にガッカリしたくないという思いもある。それに何より、私を愛しているならば、まぁ時間はかかるかもしれないが結局は受け入れるのだろうという、信頼でもないが、確信があるので、カミングアウトの必要性をやっぱり感じられない。ここを疑うことのない私はそれなりに、いや、とても恵まれているのだろうということは分かる。分かるのだが、そう感じているかというと、あまりにも当たり前過ぎて実は感謝したこともない。
嫌らしい言い方になるが、持っている者は、その貴重さ自体を知らないし、持たない者のことを想像したこともない。初めからそこにあったのだから。この傲慢さ!傲慢さ!!これを掘り下げて書きたかったのだが、いやぁ、自分の醜さを真正面から見つめるのは、鏡さえ真っ直ぐ見つめられなくなってきた中年にはキツイ。また、いつかどこかで書けたら。
HUWEI
あの愛想のなさとか、薄ぼんやりして見えるところが、他者からの自分の見え方そのもののような気がして反省した。場によっては極端に口数が少ないから訳わからん人間に見えるよなぁと。私の場合は何も考えていないだけだが、ぼーっとしてる時の顔が怖いというのが、今回初めて客観的に自覚できた気がする。今までは、たそがれてる時に笑ってる奴はいないし、ひでぇ言いがかりだと思っていたのだが、ああいう表情に急になるから怖いのか。
思考を言葉ではなく、イメージのそれに切り替える瞬間が誰しもあると思う。そうやって潜ろうと意識を薄くしたときに、引き戻すように声をかけてくる邪魔な人間がたまにいてイライラしていたのだが、きっと不安にさせてたんだなとようやく理解できた。でもこれ、直せる気もしない。脳がどっかに行っちゃった後は表情がもう制御化にないのだ。すまんな。
恋リア史上、最高の作品(2026.04.19追記)
ボーイフレンド・シーズン2は近年稀な素晴らしい作品で、ラストシーンの美しさも含めて、私のなかではバチェロレッテ・シーズン1を超えた。重いので見直すことはないが、未視聴の方には積極的に推薦したい作品だ。
少し余談になるが、2月に強行された衆院選の結果、自民党を圧勝させてしまったことにより、日本で同性婚や選択的夫婦別姓が実現されることは、ほぼ永久になくなった。この事実をどう受け止めているだろうか。その怒りのなかで、マジョリティが踏みつけたものを直視しておきたいと、予定になかったボーイフレンド・シーズン2の視聴を決めた。
今回KAZUYUKIの存在が照らしてくれたように、中年期にいる者は同性婚の実現が諦めきれない。もっと前の世代であれば、おそらく妥協して養子縁組するという選択をした方も多いだろうが、手が届きそうで届かない状況はキツイ。それは感情的にという意味だけでなく、一度養子縁組に舵を切ると、同性婚が実現した後でも二度と婚姻はできない制約があるからだ。年齢や健康状態によって、難しい決断を迫られ続け権利も守られない。一方、WILLIAM&IZAYAには具体的な国際同性婚の未来が見えているのかもしれない。二組の状況はあまりに違う。悔しい。
少々打算的な示唆で気が引けるが、特にレズビアンの方は、韓国もいずれ同性婚は実現するだろうから、台湾、ネパール、タイ、韓国で出会いがあれば大切に御縁を繋ぐのもいいかもしれない。ミソジニー斜陽ジャパンから脱出するための命綱になるかもしれない。
熱狂と操作性
つい先日、国会にも党首討論にも出席しない首相と面談し、化粧の話をしたMEGUMIのニュースに落胆した。今までバランスが良かっただけに、失望は怒りに代わり、下書き記事を削除しようかと思ったが、結局はこの思いを含めて残すことに決めた。
この石油危機において多忙のはずの首相を34分拘束できる手腕。本当にすごいね。お前のこと、見下げ果てたよ。「思想が合わない人と面談するだけで騒ぎすぎ」との批判も目にするが、本質はそこじゃない。このタイミングで軍事独裁国家へ舵を切っている政権中枢へ近づくその判断を批判している。そう、別に思想も行動も制限できない。MCが同性婚に賛成であることは必須ではない。誰と会うのも自由だ、好きにすればいい。同様にこちらがMEGUMIを見放してそれを表現するのも自由だというだけの話だ。大きな看板を背負っておきながら、その影響範囲に思い至らず、「ゲイの恋リアMCは単なる仕事」と言わんばかりの姿勢を心底軽蔑しているというだけの話だ。
また、私はこのタイミングでMEGUMIを引き合わせる絵を描いた奴に嫌な感じがしている。恋リア層って、狙われてない??
アイドル産業以外で、ここまで熱狂できる信者を集められる界隈を私は知らない。お笑いやスポーツももちろん熱心なファンはいるものだが、「今回のアレはどうだった」的な、必ず批判的視点を持ち合わせている。が、アイドルや恋リアのファンダムは「全てを受け入れる」みたいな感覚の方が割と多い。「盛り上げ続けなれば継続しない」という危機感のもと、自らのめり込んで信者化し、さらに勧誘を始める感じ。まさにインザメガチャーチで描かれた世界だ。
あの小説でオーディション番組に先にドはまりしていたバイト先の同僚が、番組終了後には冷めている描写があったが、私はあんな感じだ。祭りは祭りで楽しいが、まぁそれだけだ。その後を追うこともないし、出演者のプライベートにはあまり関心がない。
のめり込むほど深く楽しめるのも事実なので、それ自体は健全ならば素敵なことだと思うが、それを利用しようとする人間がいてもおかしくないという視点は持っていたほうがいいのではないだろうか。恋リアは特に出演者やMCに親近感を抱きやすい。操作性が高く、コスパの良いその層を抑えに来ているんじゃないかという気はする。
それでは、こんな書きかけのよく分からない文章をここまで読んでいただいてありがとうございました。

