はじめに
元恋人同士が出演するという地獄設定に戸惑いながらも視聴を終えた。交錯する感情がしんどく万人に薦められるものではなかったが、せっかく観たのでサクッと感想を綴っておきたい。
このリアリティショーは鬼畜な舞台設定が目新しく、面白いと言えば面白いが、一部を除いて展開される恋沙汰はママゴトの範疇なので、しょーもないと言えばしょーもない。5対5の地獄合コンにもかかわらず2組の物語が新たに動き出していたのは、驚異のマッチング率と言える。
適当に流し見していたズボラがレビューを書こうと思ったのは、「ありさ&きょうへい&ダイキについて一言申し上げたい」というのが原動力だ。
彼らについては、かなりシビアなことを書くと思うが、これは三人についてどうこうというよりも、「こういう恋愛観を持っている人間にしてみれば、彼らの関係はこう見える」という、ひとつのサンプルとして受け取ってほしい。別に恋は何が正解という話でもなく、ジャッジするつもりはないのだが、「それでええの?」と中年が強く思ったので、伝えたい。
関係性についての雑感
登場人物が深掘りされないままショーはあっさりと終局を迎え、一部を除いて今後の活躍に繋がるのかは疑わしく、出演者の旨味がやや少ないなと感じた。個人的にはえりの一人勝ちだ。映像への溶け込み具合と描いたストーリーが段違いで、競合が少ない「はんなり」キャラと、役柄を固定されない顔の造作は俳優業にも向いていそうだ。
メンバーによってフォーカス度がかなり異なり、個々の人間性はそこまで見えてこなかったので、今回は関係性を軸に雑感を綴ってみたい。ファーストネームのみなので、敬称略で失礼する。
あみ&こうへい&マサシ
キャラ付けのためだろう「ウチ」ブランディングが少々痛ウザイが、自己演出力が巧みなあみは頼もしい。興味がないので追いかけはしないが、何歳で一人称が変わるのか私は楽しみにしているので、気づいたら誰か教えてほしい。
あみとこうへいの過去映像は「花束みたいな恋をした」そのもので、容姿も作中人物によく似ているので、本当に寄せていたのかもしれない。オモロ。
彼らはそれぞれ年齢相応の落ち着きと知性があり、将来が楽しみだ。相性もとても良いだろうが、出会う時期がベストであったかというと、もうこれは何とも言えない。
例えば、私は梨が好きだが、生まれて初めて食べた梨に飛び上がるほど感動したとして、赤ん坊にはそれが一番好きなフルーツだとは宣言できまい。だって、比較対象がないから。
梨に似たフルーツにりんごがあると聞けば、それを食べてからでないと決められない。りんごはそこそこだと思った後には、ちょっと冒険するかと果樹園を巡り柿やブドウも食ってみる。肥えてきた舌でやっぱり梨かも?と思った今度こそは、洋梨を食べ、幸水・豊水・二十世紀を試すまで頂上決戦はできまい。つまり、二人はそういう年齢なのだと思う。あみは他者を知りたかったのだと思う。相手によって、どのような自分が出てくるかを知りたいのだと思う。加えて向上心と冒険心が強そうで、喜ばしい結果ではあったが、今それを脇に置くことが良かったのかはちょっとわからない。
さて、マサシである。いつも何かを言っているようで、何も言っていないマサシである。物腰の柔らかさは魅力的だが、これは別に大人の余裕的なものではなく単なる性質で、彼は昔っからローテンションで落ち着いている人だろうと思う。ちょうど性質と年齢が合ってきた頃で、モテ期のピークを迎えている。
少しエイジズムを入れた話をするが、必要な文脈なので許してほしい。私があみと同じ年齢の頃、許容範囲はだいたい5歳までで、つまりリミットは28歳だった。当時の私にとって30歳以上は出会うこともなく未知の世界で、道路と同じような社会のインフラとしてしか認識していなかった。彼らの存在は、生息が確認できないほど視界から抹消されていて、そもそも男性としてカウントしたことがなかった。若者の残酷な感性とはそんなものではないだろうか。だから、それをヒョイっと飛び越えられるあみのような感覚は新鮮で面白く感じると同時に、どこか年上の芸達者と付き合いながらスキルを次々とゲットしてきた俳優・宮沢りえ味を感じる。今すごく面白い時期だと思うので、いろんな体験をして新しい自分をどんどん発見してほしい。
マサシはあみに対して率直にアプローチをしてはいるが、彼女が必要な情報を与えていない。彼はポーズをとったままで自分自身をあまり表現しない。彼の柔らかい表情とは裏腹に、何かを言っている風で空虚な言葉との矛盾に、えりは彼を掴みきれずに不安定になっていったのではないかと私は考えている。彼といると消耗する女性は多いんじゃないだろうか。
軽率に人間を比べるものではないが、36歳のこうへいと現36歳のマサシの成熟度は勝負にならないぐらい引き離されているかもしれない。しかし、人は順列でしか出会えなくて、その時点の自分でしか出会えない。それが見える中年には出会いの偶発性がもどかしい。
ありさ&きょうへい&ダイキ
クールなありさはとても頭が良く、かつ、それを戦略的に隠しているタイプの女性だと思う。一応彼女はダイキとのデートを楽しんでいるとの体なのだが、画面を通して私が感じていることは少し違う。彼女の女性に対する丁寧で温かい様子と、男性に対する冷めきった態度の差からは、彼女が性愛について端から期待しておらず、皆が持っている価値の安定したブランドバッグを一応手に入れるかのように、「一定レベル以上の誰かに愛される自分」というキラキラステータスを手に入れようとしているかのように見える。本当にそういう恋愛で満足できるの?インスタのコピペみたいなデートを楽しめるのが「正解」って思い込んでない?
さて、中年が懐古主義で語ってみたい。携帯電話にGPSが付いて以来、私達は迷子にならなくなった。旅行に出かけても、Googleに経路案内をお願いしてトコトコ歩き、インスタで見た場所で、インフルエンサーのポーズを真似てパチリとアリバイのような写真を撮影したら興味も失せ、無駄のないドラクエは終了だ。誰かの辿った道筋を同じようにこするだけで、自分自身で偶発的に何かを発見することもなければ、予測を超える感動を手にすることもない。コスパコスパ&タイパタイパ&予定調和予定調和。私達は旅の行動さえもGoogleの支配下にある。
そんなスタンプラリーのような行動様式を恋愛でもやっている人は多いのではないだろうか。ありさとダイキのデートは、いつかどこかで見たようなシーンをコピペで再現し、キメラ結合させたような奇っ怪さだ。彼のオリジナルが、人間性がまるで見えてこないし、やっていることと二人のテンションがハマっておらず空々しい。互いに仮面を被って男と女のロールプレイング。ほんとにそれ、楽しいの?迷子にならなくて、ほんとにいいの?新しい自分に出会ってみたいと、本気で思わないの?
ダイキの用意する小ネタは私にとっては全てが寒い。ダサすぎて、画にならなすぎて、もはや痛い。どこでそんなしょうもない小手先のテクニックを仕入れて来たんだろう。彼は「女性をスマートにエスコートできる俺像」に酔っているだけで、目の前のありさという人間を見ていない。
テクニックを一度習得すると、相手を置き換えても使い回せて一見コスパがいいと馬鹿ほど勘違いするよね。さすが経営者ダイキは合理的で抜け目がない。ただね、その個別にカスタムされていない手抜きは見破られるし、あんまり響かない。なぜなら、その態度は「お前自身を見てはいない」というメッセージそのものだから。愛される女子を演じていたいありさは、恋愛フォーマットに則って喜んだ振りをしているだけだ。10年経って恋愛対象の年齢が上がった時、ダイキは女性から「くだらない恋愛もどきしかしてこなかったんだな」と思われる日が来るだろうと思う。
きょうへいもツッコミどころが多いが、23歳ってあんなもんなのか、年齢の割に幼すぎるのか、あまりに遠い時代すぎて判別できない。感情的なところは性質なのかなぁ。私はそれよりもルカからのアドバイスを少し不服そうに、素直に受け止められないところが気になった。そして、自分を客観視できない、感情の抑制ができない人間は役者には向いていないので、早めに転向した方がいいと思う。地下に潜るかホストに流れていく将来が見えるようだ。多分自分で気づいていないのだと思うが、「不満」を表明しているような口をすぼめる癖は早めに直した方がいい。そのつもりがなくとも誤解されてしまう表情で損をしやすい。
それにしても、きょうへいはありさのどこをそんなに好きなんだろうか。興味がなさすぎて聞き逃しているのかもしれないが、それがあまり表現されているような気がしないので、彼女自身にも全く響いていないと思う。
この旧カップルは、女性から男性へのダメ出しが続くだけで、何も対話をしない。本当に付き合ってたの?という関係のペラさにも白けてしまうが、きょうへいの恋愛解像度も「可愛い!触れたい!好き!大好き!!」みたいなショボさに思えてならない。ありさにとって、きっと可愛いはお腹いっぱいだ。
彼女は、ただただドラマみたいな恋愛シーンを演じていたい、それを恋愛だと錯覚しているお年頃で、空っぽのダイキならどんな役でも憑依させられそうだし、大根きょうへいはもうお役御免なのだろう。それにしても、こういう恋愛は危険だと思わないだろうか?理想の恋愛にはシーンと役柄が用意されているだけ。だからこそ上位互換が現れれば未練もなく切り捨てられる。だってこれは、ありさの恋愛ショーのオーディションなんだから。余談だが、面白いことに彼女は最強のストーカー対策を実践してみせた。衆目のなかで別れを告げる、これ以上の安全対策があるだろうか。
彼らの様子を恋愛だと表現するのは、それはそれだし自由だが、下品な表現になるが、こんなものは相手とのぶつかり稽古に期待して好き好き言ってるだけの浅ましく空虚な関係なのではないかと思う。身体に触れたいと思うように、相手の心に触れたいとは思わないのだろうか。そもそも彼らは心に触れられたことがあるのだろうか。一度でもその経験があれば、それを求めずには、与えずにはいられないものだと思う。「今までどこにいたんだ」と思わず相手を詰ってしまいたくなるような、出会っていなかった過去の寂しさを思うと切なくて泣けてしまうような出会いはある。中年はそういうものを恋愛だと思っているのだが、どうだろうか。
何にせよ、彼らのような感性で生きる人々にとっては、この世はマジ・ドラクエで、楽勝なんだろうなとは思う。ホップ・ステップ・軽々とジャンプだ。凄い凄い。ラブトランジットとはよく言ったもので、彼らのような者には似合いだ。一生やってろ。
えり&マサシ
ショートフィルムのような過去映像は切なく、えりは俳優なんじゃないかと思ってしまう程に強く印象に残る。ただひとつ、気になるのはえりの作り笑いだ。職業柄ということもあるだろうし、先回りして推察するような気遣い屋である彼女は、視界の端で様子を伺うのが癖になっているのだと思うが、あの横目でスッと観察する視線は気づいてしまうとちょっと怖い。
クソバイスになってしまうが、えりは視線の逃し方と作り笑いを改善したら、より魅力的になると思う。えりの目は笑っていないし、笑顔を絶やさない割には朗らかという印象が持てない。彼女が素直な真顔をしていても、それはそれで可愛らしいだろうと思うし、心から笑っていないことはジワジワと相手を傷つける。繊細なところがありそうなマサシが辟易していたのは、きっとあの笑顔だと思う。何かを隠し、素直に表現することのない仮面。自分には本当の笑顔を引き出す力がないのだと、関係性を空虚なものだと感じてしまうのではないだろうか。ただ、裏を返せば、マサシはえりに「愛されている」と自信を持たせてくれる相手ではなかったのだろうとも思う。
彼らは出演したことで互いに向き合えた稀有なカップルだと思う。このショー自体が、まるでえりのためのように用意されていたようなドラマチックな結末を迎え、どこまでもえりの一人勝ちなのであった。
マイ&ダイキ
別れから10年?以上経ており、互いへの淡い期待感というよりは、成人式で再会するようなワクワクと、売名の利害一致でタッグを組んだ出演だと思うが、あまりに露骨過ぎたダイキの態度に、懐かしく昔話ぐらいはできるかなと思っていただろうマイは割り切れず、無視されっぱなしで寂しかったのかなと思う。ダイキの「まぁ、そっちも楽しくやってくれよ」という突き放した言い草が、生活を共にする者、ましてや過去に関係があった者に向ける言葉ではないなと思った。「楽しめそう?」という優しい気遣いができない辺りに、恋愛工学のコピペしかできない張りぼてダイキのペラさを感じる。
人は移ろっていくものなので、ダイキの変化について否定的に言及する必要はなかったが、過去の関係がしっかりしたものであったなら、不当な指摘でもないし、まぁ言ってもいいとは思うが、マイは親切だなと思う。私ならこんなしょうもない男にわざわざアドバイスはしない。ダサい奴は放置してこそ真価が発揮される。
おそらくマイの苛つきは、形だけを追うようなダイキの軽薄な行動と、配慮のなさに対してだろう。画面からも彼の拙速な上昇志向と「何者かになりたい」圧が溢れ出ていて暑苦しい。対して、マイからの別れの言葉と餞は清々しく、カッコよかった。
ルカ&よしひと
ルカはきょうへいの「露出を抑えてほしい」という、女性の表現に制限をかけることへの不当さを理路整然と伝えることができる一方で、よしひとが絡むと自分の気持ちが最優先になり、状況を正しく俯瞰で把握できずに論理破綻もする。荒ぶることも多く、自分の感情は大切にできても、自分の態度に相手がどう感じるかとの想像や配慮ができない。
きょうへいに誘われたありさが一気飲みした様子を爆笑するシーンは象徴的で、「どうしたん?」と問いかけるきょうへいはスルーしつつも、ありさに「行ってあげて」と、まるで彼女が行くのを嫌がっていたように誤解させるような発言をしてしまう迂闊さと態度の失礼さがある。典型的な自己中で、それだけならまぁいいが、激高しやすいので冷静に話し合えない感じが疲れてしまいそうだ。声の大きさだけで強引に世論を形成してしまうタイプで、私なら面倒そうな地雷原には近づかない。
よしひとは野性的な印象に反して、よく周りを見ており、イヤホンなど些細な変化まで捉えている。これはスポーツをやっていたことも関係があるのか視野が広い。マサシの選曲を質したところはとても頼もしかった。
あのとき、空っぽダイキを中心にメンバーはそれなりに耳触りの良い中庸な意見を言い放っていたが、違う。本質はそこじゃない。あの場でよしひとが確認したかったのは、選曲に他意がなかったことについてではない。そんなことは当たり前で、「かつて大切に想った相手が、それをどのように受け取るか想像できなかったのか」と、そのつもりがなくとも人を傷つけていることを指摘しているのだ。下に兄弟でもいるのだろうか、空気を冷えさせてでも意見できる姿勢はすごく真っ当で、この意図を誰一人汲めなかった浅慮さにこそ落胆した。
話は変わるが、二人の交際期間が1ヶ月というのはびっくりだ。そりゃもう、誤差というか、カウントしなくてもいいやつじゃ・・・?なんてことを中年は思ったんだが、ジェットコースターみたいな1ヶ月だったんだろうか。彼らを疑う訳ではないが、ここに制限を設けていないと、シーズン2があるならビジネスカップルで溢れちゃうんじゃないのか。次回の出演を狙うプチインフルエンサー達は、きっと共闘できるインフルエンサーの一本釣りとアリバイ作りにもう動き始めていると思う。まぁ、詐欺師みたいなカップルが複数出てきて、人狼ゲームみたいになるのも面白いかもな。誰も傷つかんし。
エモい音楽にほだされて
鑑賞を終えて一旦冷静になったところで、この狂気の舞台設定について考察しておきたい。いい感じの音楽と最終結果に騙されそうになるが、やってるこたぁ鬼畜そのもので、サイコパス大集合になっている。過去への所有欲と独占欲が刺激され、嫉妬に似たそれを引き出すことで、己の自信を担保しつつ冒険もする。
中段で過去と未来に綱引きされる女性が「ケンカをやめて」状態になっていたが、そもそもこの舞台に飛び込んだのは彼ら自身という滑稽さだ。狂った環境が作り出すエモさに感傷的になってラリっているマッチポンプ・ヒロイン、この状況で酔っぱらえるのはすげぇ。
このリアリティショーは感情のフックが何重にも周到に仕掛けられており、視聴者は終始心がざわついたまま視聴し続け、皆一度は経験したような状況に共感はたやすいものの、突き抜けた感動があるわけでもない。
今まで数種類の恋愛リアリティショーを視聴してきたが、これほど揺さぶりをかける舞台が用意され、出演者を駒のように扱い、気持ちを弄ぶゲーム性の強いものはなかった。ショーを楽しむことに罪悪感さえある。たまたま復縁カップルが多かった結果だけを受けて、この設定を手放しでは賛成できない自分がいる。
新恋人や復縁は、過去の恋人の心をあれほど乱してまで獲得する意味があったのだろうか。fameのために、思い出をわざわざ冬眠から叩き起こして再着色する必要はあったのだろうか。私にはわからん。
放置されがちな設定
このショーの核心は元恋人同士が出演し、過去と未来を見つめるというコンセプトだ。
元恋人同士が少し俯瞰で当時の状況を見つめる対話がもっとあれば、一般的にはそうそう起こらない現象なので、とても見応えがあったと思う。別れの時に伝えきれなかった想いや言葉を抱えて、後悔していることもあるだろうから。
えりとマサシが別れについて語る場面以外、全編を通してそこまでの対話がなく、設定が活かしきれていないように感じた。視聴者としては「どうして別れたの?」というところが一番知りたいし、互いのすれ違った認知の答え合わせが一番参考になる。
さて、口直し
人様の感情に疲れてしまった方に、私が最近観て超楽しかったリアリティショー「サイレン」をお薦めしたい。ネトフリのレビューを書けばアマプラを薦め、アマプラのレビューを書けばネトフリを薦める・・・わざと逆張りしている訳ではないのだが、プラプラしてるとこういうこともある。
これは女性6チーム(1チーム4人)が陣取り合戦をするリアリティショーで、参加人数は多いものの、チームカラーがあるので状況把握はそう困らない。チーム由来の着眼点や技術を用いて知略を巡らせるところが面白い。このショーの何が凄いって、時折シレっと映り込んでいるスタッフだろうと思う。スタッフの動き次第で敵の動きがバレそうだし、どうやって撮影してるんだろう。
大きな怪我人が出なくて良かった・・・男がやったら死人が出るわ・・・と思うようなショーなのだが、女性達が皆カッコよくて面白かったので是非シーズン2が観たい。私はずっと「消防士ー!消防士ー!!」と応援していた。とにかく元気が出ると思うので是非。
※画像は全て、イエモネ様の記事より拝借しています。
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